月日を送ってしまいました。すると、ある日のことです。かの李徳逢が例のごとくに弓矢をたずさえて山狩りに出ると、一匹の※[#「鹿/章」、第3水準1−94−75]《くじか》を見つけたので、すぐに追って行きました。
※[#「鹿/章」、第3水準1−94−75]はよく走るので、なかなか追い付きません。鹿を追う猟師は山を見ずの譬《たとえ》の通りに、李は夢中になって追って行くうちに、岡を越え、峰を越えて、深い谷間へ入り込みましたが、遂に獲物《えもの》のすがたを見失いました。がっかりして見まわすと、いつの間にか日が暮れています。おどろいて引っ返そうとすると、もと来た道がもう判りません。そこらを無暗に迷いあるいているうちに、夜はだんだんに暗くなって、やがて初更《しょこう》(午後七時―九時)に近い頃になったらしいのです。むこうの山の頂きに何かの建物があるのを見つけて、ともかくもそこまで辿《たど》り着くと、そこらは人跡《じんせき》の絶えたところで、いつの代に建てたか判らないような、頽《くず》れかかった一宇《いちう》の古い廟がありました。
「なんだか物凄い所だ」
大胆の青年もさすがに一種の恐れを感じましたが、今更どうすることも出来ないので、しばらく軒下に休息して夜のあけるのを待つことにしていると、たちまちに道を払う警蹕《けいひつ》の声が遠くきこえました。
「こんな山奥へ今ごろ威《いか》めしい行列を作って何者が来るのか。鬼神か、盗賊か」
忍んで様子を窺うに如《しか》ずと思って、かれは廟の欄間《らんま》へ攀《よ》じのぼり、梁《はり》のあいだに身をひそめていると、やがてその一行は門内へ進んで来ました。二つの紅い燈籠をさきに立てて、その頭分《かしらぶん》とみえる者は紅《あか》い冠《かんむり》をいただき、うす黄色の袍《ほう》を着て、神坐の前にある案《つくえ》に拠って着坐すると、その従者とおぼしきもの十余人はおのおの武器を執って、階段《きざはし》の下に居列びました。その行粧《ぎょうそう》はすこぶる厳粛でありますが、よく見ると、かれらの顔かたちはみな蒼黒く、猿のたぐいの※[#「けものへん+矍」、261−18]《かく》というものでありました。
さては妖怪|変化《へんげ》かと、李は腰に挟んでいる箭《や》を取って、まずその頭分とみえる者に射あてると、彼はその臂《ひじ》を傷つけられて、おどろき叫んで逃げ出しました。他の眷族《けんぞく》どもも狼狽して、皆ばらばらと逃げ去ってしまったので、あとは元のようにひっそりと鎮まりました。夜が明けてから神坐のあたりを調べると、なま血のあとが点々として正門の外までしたたっているので、李はその跡をたずねて、山を南に五里ほども分け入ると、そこに一つの大きい穴があって、血のあとはその穴の入口まで続いていました。
「化け物の巣窟はここだな。どうしてくりょう」
李は穴のあたりを見まわって、かれらを退治する工夫を講じているうちに、やわらかい草に足をすべらせて、あっ[#「あっ」に傍点]という間に穴の底へころげ落ちました。穴の深さは何十丈だか判りません。仰いでも空は見えないくらいです。所詮《しょせん》ふたたびこの世へは出られないものと覚悟しながら、李は暗いなかを探りつつ進んでゆくと、やがて明るいところへ出ました。そこには石室《いしむろ》があって、申陽之洞《しんようのどう》という榜《ふだ》が立っています。その門を守るもの数人、いずれも昨夜の妖怪どもで、李のすがたを見てみな驚いたように訊《き》きました。
「あなたは一体何者で、どうしてここへ来たのです」
李は腰をかがめて丁寧に敬礼しました。
「わたくしは城中に住んで、医者を業としている者でございますが、今日この山へ薬草を採りにまいりまして、思わず足をすべらせてこの穴へ転げ落ちたのでございます」
それを聞いて、かれらは俄かに喜びの色をみせました。
「おまえは医者というからは、人の療治が出来るのだろうな」
「勿論、それがわたくしの商売でございます」
「いや、有難い」と、かれらはいよいよ喜びました。「実はおれたちの主君の申陽侯が昨夜遊びに出て、ながれ矢のために負傷なされた。そこへ丁度、お前のような医者が迷って来るというのは、天の助けだ」
かれらは奥へかけ込んで報告すると、李はやがて奥へ案内されました。奥の寝室は帷《とばり》も衾《よぎ》も華麗をきわめたもので、一匹の年ふる大猿が石の榻《とう》の上に横たわりながら唸《うな》っていると、そのそばには国色《こくしょく》ともいうべき美女三人が控えています。李はその猿の脈を取り、傷をあらためて、まことしやかにこう言いました。
「御心配なさるな。すぐに療治をしてあげます。わたくしは一種の仙薬をたくわえて居りますから、それをお飲みになれば、こんな傷はたちまちに癒るばか
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