真《しん》州の大商人《おおあきんど》が商売物を船に積んで、杭州へ行った。時に鬼眼《きがん》という術士があって、その店を州の役所の前に開いていたが、その占いがみな適中するというので、その店の前には大勢の人があつまっていた。商人もその店先に坐を占めると、鬼眼はすぐに言った。
「あなたは大金持だが、惜しいことにはこの中秋の前後三日のうちに寿命が終る」
 それを聞いて、商人はひどくおそれた。その以来、なるべく船路を警戒して進んでゆくと、八月のはじめに船は揚子江にかかった。見ると、ひとりの女が岸に立って泣いているのである。呼びとめて子細を訊《き》くと、女は涙ながらに答えた。
「わたくしの夫は小商《こあきな》いをしている者で、銭《ぜに》五十|緡《びん》を元手にして鴨や鵞鳥を買い込み、それを舟に積んで売りあるいて、帰って来るとその元手だけをわたくしに渡して、残りの儲けで米を買ったり酒を買ったりすることになって居ります。きょうもその銭を渡されましたのを、わたくしが粗相で落してしまいまして、どうすることも出来ません。夫は気の短い人間ですから、腹立ちまぎれに撲《ぶ》ち殺されるかも知れません。それを思うと、いっそ身を投げて死んだ方が優《ま》しでございます」
「人間はいろいろだ」と、商人は嘆息した。「わたしも実は寿命が尽きかかっているので、もし金で助かるものならば、金銀を山に積んでも厭《いと》わないと思っているのに、ここには又わずかの金にかえて寿命を縮めようとしている人もある。決して心配しなさるな。そのくらいの銭はわたしがどうにもして上げる」
 彼は百緡の銭をあたえると、女は幾たびか拝謝して立ち去った。商人はそれから家へ帰って、両親や親戚友人にも鬼眼が予言のことを打ち明け、万事を処理しておもむろに死期を待っていたが、その期日を過ぎても、彼の身になんの異状もなかった。
 その翌年、ふたたび杭州へ行って、去年の岸に船を泊めると、かの女が赤児を抱いて礼を言いに来た。彼女はそれから五日の後に赤児を生み落して、母も子もつつがなく暮らしているというのであった。それからまた、かの鬼眼のところへゆくと、彼は商人の顔をみて不思議そうに言った。
「あなたはまだ生きているのか」
 彼は更にその顔をながめて笑い出した。
「これは陰徳の致すところで、あなたは人間ふたりの命を助けたことがあるでしょう」

   金の箆
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