子細を訊くと、貴公子は笑いながら説明した。
「実はわたしの家の侍女《こしもと》が子を生みまして、その子はひと月ばかりで死にました。そのときにこの小猴も丁度生まれましたが、親猴を猟犬《かりいぬ》に噛み殺されてしまったので、夜も昼も母を慕って啼き叫んでいるのが何分にも可哀そうでしたから、侍女に言いつけて育て上げさせました。人間の乳を飲んで育ったせいか、人にもよく馴れ、また自然に蛮語をおぼえて、こうしてわたしの用を達してくれるのです」
成程そうかと、杜も思った。彼は間もなくかの貴公子に別れ、清《せい》州へ行って呉《ご》という役人の家に足をとどめていると、ある日、ひとりの旅人が一匹の猴を連れて城内に入り込んだという報告があった。
「それは世間に名の高い大泥坊だ」と、呉は言った。「まず何げなく、人の家を訪問して、家内の勝手を見さだめて置いて、夜になってから其の猴を放して盗みを働かせるのだ。大方おれの所へも来るだろうから、その猴めを奪い取って、世間のために害を除かなければならない」
翌日になると、果たして呉に面会を求めに来た者がある。杜がそっと隙き見をすると、彼はまさしく先日の貴公子で、きょうも猴を連れていた。呉は面会して、かれと一緒に飯を食って、その席上でかの猴を貰いたいと言い出すと、彼も初めは堅く拒《こば》んだ。
「呉《く》れるのが嫌ならば、ここでその猴の首を斬ってみせろ」と、呉は言った。
呉は同知《どうち》という官職を帯びて、大いに勢力を有しているので、彼も強《し》いて争うわけにも行かなくなったと見えて、結局渋々ながらその猴を呉に譲ることになった。呉は謝礼として白金十両を贈った。
貴公子は帰るときに猴にむかって、なにか蛮語で言い聞かせて立ち去った。彼はそこに蛮語の通訳が聞いていることを知らなかったのである。通訳は呉に訴えた。
「あいつは猴にむかって斯《こ》う言い聞かせたのです。お前は当分飲まず食わずにいろ。そうすればきっと縄を解いて放すに相違ない。おれは十里さきの小さい寺にかくれて待っているから、すぐにそこへ逃げて来いと……」
そこで念のために果物や水をあたえると、猴は決して口にしないのである。さらに人をつかわして窺わせると、果たしてその主人もまだ立ち去らないで、そこらに徘徊していることが判ったので、呉はすぐにその猴を撃ち殺させた。
陰徳延寿
むかし
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