と、父は行商に姿をかえ、その近所の往来を徘徊して、女の出入りを窺っているうちに、ある時あたかも彼女に出逢った。それはまさしく自分の妻であった。女も自分の夫を見識っていた。不思議の対面に、その場はたがいに泣いて別れたが、それが早くも主人の耳に入って、耿は女を詮議すると、彼女は明らかに答えた。
「あの人はわたくしの夫で、あの児はわたくしの子て[#「て」はママ]ございます」
「嘘をつけ」と、耿は怒った。「去年おまえを買ったときには、ちゃんと桂庵《けいあん》の手を経ているのだ。おまえに夫のないということは、証文面にも書いてあるではないか」
女は密夫を作って、それを先夫と詐《いつわ》るのであろうと、耿は一途《いちず》に信じているので、彼女をその夫に引き渡すことを堅く拒《こば》んだ。こうなると、訴訟沙汰になるのほかはない。役人はまず女を取調べると、彼女はこう言うのである。
「わたくしも確かなことは覚えません。ただ、ぼんやりと歩きつづけて、一つの橋のあるところまで行きましたが、路に迷って方角が判らなくなってしまいました。そこへ桂庵のお婆さんが来て、わたくしを連れて行ってくれましたが、ただ遊んでいて
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