一つの物、それは小桶に似て底がなく、竹でもなく、木でもなく、金でもなく、石でもなく、名も知れなければ使い途も知れなかった。店に置くこと数年、誰も見かえる者もなかった。
 ある日、商船の老人がそれを見て大いにおどろき、また喜んだ気色《けしき》で、しきりにそれを撫でまわしていたが、やがてその値いを訊いた。道具屋の亭主もぬかりなく、これは何かの用に立つものと看《み》て取って、出たらめに五百|緡《びん》と吹っかけると、老人は笑って三百緡に負けさせた。その取引きが済んだ後に、亭主は言った。
「実はこれは何という物か、わたしも知らないのです。こうして取引きが済んだ以上、決してかれこれは申しませんから、どうぞ教えてください」
「これは世にめずらしい宝だ」と、老人は言った。「その名を海井《かいせい》という。普通の航海には飲料として淡水を積んで行くのが習い、しかもこれがあれば心配はない。海の水を汲んで大きいうつわに満々とたたえ、そのなかに海井を置けば、潮水は変じて清い水となる。異国の商人からかねてその話を聞いていたが、わたしも見るのは今が始めで、これが手に入れば、もう占めたものだ」[#地から1字上げ](
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