そ》れ憚《はばか》らず、夏の日に宮前の廊下に涼んでいて、申《さる》の刻(午後三時―五時)を過ぐるに至った。まだ暗くはならないが、場所が場所であるので、従者は恐れて早く帰ろうと催促したが、呉は平気で動かなかった。
 たちまち警蹕《けいひつ》の声が内からきこえて、衛従の者が紅い絹をかけた金籠の燭を執ること数十|対《つい》、そのなかに黄いろい衣服を着けて、帝王の如くに見ゆる男一人、その胸のあたりにはなまなましい血を流していた。そのほかにも随従の者大勢、列を正しく廊下づたいに奥殿へ徐々《しずしず》と練って行った。
 呉と従者は急いで戸の内に避けたが、最後の衛士は呉がここに涼んでいて行列の妨げをなしたのを怒ったらしく、その臥榻《がとう》の足をとって倒すと、榻は石※[#「土+專」、第3水準1−15−59]《いしがわら》をうがって地中にめり込んだ。衛士らはそれから他の宮殿へむかったかと思うと、その姿は消えた。
 呉もこれを見て大いにおどろいた。その以来、彼は決してこの古御所に寝泊まりなどをしなかった。彼は自分の目撃したところを絵にかいて、大勢の人に示すと、洛陽の識者は評して「これは必ず唐の昭宗《しょうそう》であろう」と言った。
 唐の昭宗皇帝は英主であったが、晩唐の国勢振わず、この洛陽で叛臣|朱全忠《しゅぜんちゅう》のために弑《しい》せられたのである。[#地から1字上げ](同上)

   我来也

 京城の繁華の地区には窃盗が極めて多く、その出没すこぶる巧妙で、なかなか根絶することは出来ないのである。
 趙尚書《ちょうしょうしょ》が臨安《りんあん》の尹《いん》であった時、奇怪の賊があらわれた。彼は人家に入って賊を働き、必ず白粉をもってその門や壁に「我来也《がらいや》」の三字を題して去るのであった。その逮捕甚だ厳重であったが、久しいあいだ捕獲することが出来ない。
 我来也の名は都鄙《とひ》に喧伝《けんでん》して、賊を捉えるとはいわず、我来也を捉えるというようになった。
 ある日、逮捕の役人が一人の賊を牽《ひ》いて来て、これがすなわち我来也であると申し立てた。すぐに獄屋へ送って鞠問《きくもん》したが、彼は我来也でないと言い張るのである。なにぶんにも証拠とすべき贓品《ぞうひん》がないので、容易に判決をくだすことが出来なかった。そのあいだに、彼は獄卒にささやいた。
「わたしは盗賊には相違ないが、決して我来也ではありません。しかし斯《こ》うなったら逃がれる道はないと覚悟していますから、まあ劬《いたわ》っておくんなさい。そこで、わたしは白金そくばくを宝叔塔《ほうしゅくとう》の何階目に隠してありますから、お前さん、取ってお出でなさい」
 しかし塔の上には昇り降りの人が多い。そこに金を隠してあるなどは疑わしい。こいつ、おれを担《かつ》ぐのではないかと思っていると、彼はまた言った。
「疑わずに行ってごらんなさい。こちらに何かの仏事があるとかいって、お燈籠に灯を入れて、ひと晩廻り廻っているうちに、うまく取り出して来ればいいのです」
 獄卒はその通りにやってみると、果たして金を見いだしたので、大喜びで帰って来て、あくる朝はひそかに酒と肉とを獄内へ差し入れてやった。それから数日の後、彼はまた言った。
「わたしはいろいろの道具を瓶《かめ》に入れて、侍郎橋《じろうきょう》の水のなかに隠してあります」
「だが、あすこは人足《ひとあし》の絶えないところだ。どうも取り出すに困る」と、獄卒は言った。
「それはこうするのです。お前さんの家《うち》の人が竹籃《たけかご》に着物をたくさん詰め込んで行って、橋の下で洗濯をするのです。そうして往来のすきをみて、その瓶を籃に入れて、上から洗濯物をかぶせて帰るのです」
 獄卒は又その通りにすると、果たして種々の高価の品を見つけ出した。彼はいよいよ喜んで獄内へ酒を贈った。すると、ある夜の二更《にこう》(午後九時―十一時)に達する頃、賊は又もや獄卒にささやいた。
「わたしは表へちょっと出たいのですが……。四更(午前一時―三時)までには必ず帰ります」
「いけない」と、獄卒もさすがに拒絶した。
「いえ、決してお前さんに迷惑はかけません。万一わたしが帰って来なければ、お前さんは囚人《めしゅうど》を取り逃がしたというので流罪《るざい》になるかも知れませんが、これまで私のあげた物で不自由なしに暮らして行かれる筈です。もし私の頼みを肯《き》いてくれなければ、その以上に後悔することが出来るかも知れませんよ」
 このあいだからの一件を、こいつの口からべらべら喋《しゃ》べられては大変である。獄卒も今さら途方にくれて、よんどころなく彼を出してやったが、どうなることかと案じていると、やがて檐《のき》の瓦を踏む音がして、彼は家根《やね》から飛び下りて来たので、獄卒は先
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