暗に鬼の真似をして見せたところで、先生は驚きますまい。冥府の役人からこういう差紙《さしがみ》を貰って来たのだぞといって、眼のさきへ突き付けたら、先生もおそらく真物《ほんもの》だと思って驚くでしょう。それを付け込んで、今後は生徒を可愛がってやれと言い聞かせます」
しかし冥府から渡される差紙などというものの書式《しょしき》を誰も知らなかった。
「いや、それはわたしが曾《かつ》て見たことがあります」
張は紙を貰って、それに白礬《はくはん》で何か細かい字を書いた。用意はすべて整って、日の暮れるのを待っていると、一方の張先生は例のごとく生徒をあつめて、夜学の勉強を監督していた。
州の学舎は日が暮れると必ず門を閉じるので、生徒は隙《すき》をみてそっと門をあけて、かの張鬼子を誘い込む約束になっていた。その門をまだ明けないうちに、張鬼子はどこかの隙間から入り込んで来て、教室の前にぬっ[#「ぬっ」に傍点]と突っ立ったので、人びとはすこしく驚いた。
「畜生、貴様はなんだ」と、張先生は怒って罵った。「きっと生徒らにたのまれて、おれをおどしに来たのだろう。その手を食うものか」
「いや、おどしでない」と、張鬼子は笑った。「おれは閻羅王《えんらおう》の差紙を持って来たのだ。嘘だと思うなら、これを見ろ」
かねて打ち合わせてある筋書の通りに、かれはかの差紙を突き出したので、先生はそれを受取って、まだしまいまで読み切らないうちに、かれはたちまちその被り物を取り除けると、そのひたいには大きい二本の角があらわれた。先生はおどろき叫んで仆《たお》れた。
張は庭に出て、人びとに言った。
「みなさんは冗談にわたしを張鬼子と呼んでいられたが、実は私はほんとうの鬼です。牛頭《ごづ》の獄卒です。先年、閻羅王の命を受けて、張先生を捕えに来たのですが、その途中で水を渡るときに、誤まって差紙を落してしまったので役目を果たすことも出来ず、むなしく帰ればどんな罰を蒙《こうむ》るかも知れないので、あしかけ二十年の間、ここにさまよっていたのですが、今度みなさん方のお蔭で仮《か》を弄《ろう》して真《しん》となし、無事に使命を勤め負《おう》せることが出来ました。ありがとうございます」
かれは丁寧に挨拶して、どこへか消えてしまったので、人びとはただ驚き呆れるばかりであった。張先生は仆れたままで再び生きなかった。[#地から1字上げ](同上)
両面銭
南方では神鬼をたっとぶ習慣がある。狄青《てきせい》が儂智高《のうちこう》を征伐する時、大兵が桂林の南に出ると、路ばたに大きい廟があって、すこぶる霊異ありと伝えられていた。
将軍の狄青は軍をとどめて、この廟に祈った。
「軍《いくさ》の勝負はあらかじめ判りません。就いてはここに百文の銭《ぜに》をとって神に誓います。もしこの軍が大勝利であるならば、銭の面《おもて》がみな出るように願います」
左右の者がさえぎって諫《いさ》めた。
「もし思い通りに銭の面が出ない時には、士気を沮《はば》める虞《おそ》れがあります」
狄青は肯《き》かないで神前に進んだ。万人が眼をあつめて眺めていると、やがて狄青は手に百銭をつかんで投げた。どの銭もみな紅い面が出たのを見るや、全軍はどっと歓び叫んで、その声はあたりの林野を震わした。狄青もまた大いに喜んだ。
彼は左右の者に命じて、百本の釘を取り来たらせ、一々その銭を地面に打付けさせた。そうして、青い紗《しゃ》の籠をもってそれを掩《おお》い、かれ自身で封印した。
「凱旋《がいせん》の節、神にお礼を申してこの銭を取ることにする」
それから兵を進めてまず崑崙関《こんろんかん》を破り、さらに智高《ちこう》を破り、※[#「巛/邑」、第3水準1−92−59]管《ゆうかん》を平らげ、凱旋の時にかの廟に参拝して、曩《さき》に投げた銭を取って見せると、その銭はみな両|面《おもて》であった。[#地から1字上げ](鉄囲山叢談)
古御所
洛陽《らくよう》の御所は隋唐五代の故宮《こきゅう》である。その後にもここに都するの議がおこって、宋の太祖の開宝《かいほう》末年に一度行幸の事があったが、何分にも古御所《ふるごしょ》に怪異が多く、又その上に霖雨《ながあめ》に逢い、旱《ひでり》を祷《いの》ってむなしく帰った。
それから宣和《せんな》年間に至るまで年を重ぬること百五十、故宮はいよいよ荒れに荒れて、金鑾殿《きんらんでん》のうしろから奥へは白昼も立ち入る者がないようになった。立ち入ればとかくに怪異を見るのである。大きな熊蜂や蟒蛇《うわばみ》も棲んでいる。さらに怪しいのは、夜も昼も音楽の声、歌う声、哭《な》く声などの絶えないことである。
宣和の末に、呉本《ごほん》という監官があった。彼は武人の勇気にまかせて、何事をも畏《お
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