、人びとは舌をまいた。
碧瀾堂
南康《なんこう》の建昌《けんしょう》県の某家では紫姑神《しこじん》を祭っていたが、その神には甚だ霊異があって、何かにつけて伺いを立てると、直ちに有難いお告げをあたえられた。たとえば長江の下流地方では茶の価いが高くなっているから、早く持ち出して売れといい、どこでは米の相場が騰《あが》っているから、早く積み出してゆけというたぐいで、それが一々適中するために、その家は大いに工面《くめん》がよくなった。
ある日、又もや神のお告げがあった。
「あしたは貴い客人が来る。かならず鄭重に取扱わなければならぬぞ」
そこで、家の息子たちや奉公人どもは早朝から門に立って待ち受けていたが、日の暮れる頃まで誰も来なかった。
神様のお告げにいつわりがあろうとは思われないが、是非なく門を閉じようとする時、ひとりの乞食が物を貰いに来た。
「さあ、これだ」
無理に内へ連れ込んで、湯に入れるやら、着物を着せ換えるやら、家内が総がかりで下へも置かない歓待《もてなし》に、乞食は面食らった。嬉しいのを通り越して、かれは怖ろしくなった。もしや自分を生贄《いけにえ》にして何かの神を祭るのではないかとも疑った。
「どうぞお助けください。わたくしのような者でも命は惜しゅうございます」と、かれは泣いて訴えた。
主人から神のお告げを言い聞かされて、乞食も不思議そうに言った。
「それではお祷《いの》りをして、わたくしからその子細を伺ってみましょう」
香を焚いて祷ると、やがて神はくだった。
神は捧げられた紙の上に、左の文字を大きく書いた。
「あなたは碧瀾堂《へきらんどう》の昔を忘れましたか」
それを見ると、乞食はあっ[#「あっ」に傍点]と気を失ってしまった。家内の人びともおどろいて介抱して、さてその子細を詮議すると、かれは泣いて答えた。
「わたくしも元は相当の金持の家のせがれで、ある娼妓《しょうぎ》と深く言いかわしましたが、両親がとても添わせてくれる筈はないので、女をつれて駈落ちをしました。そのうちに貯えの金はなくなる、女はいつまでも付きまとっている。どうにも仕様がないので、呉興《ごこう》へ行ったときに、碧瀾堂へ遊びに行こうといって連れ出して、酒に酔った勢いで女を水へ突き落して逃げましたが、その後にもやはりよいこともなくて、とうとう乞食の群れに落ちてしまいました。今日《こんにち》わたくしがここへ呼び込まれましたのは、死んだ女がむかしの恨みを言おうがためでございましたろう」
言い終って、彼はまた泣いた。
その家では数百金をあたえて彼を帰してやった。そうして、その以後は神を祭らなくなったそうである。
雨夜の怪
後に尚書《しょうしょ》に立身した呂安老《りょあんろう》という人は、若いときに蔡《さい》州の学堂にはいっていた。ある日同じ寄宿舎にいる学生七、八人と夕方から宿舎をぬけ出して、そこらを遊びまわって、夜なかに帰って来ると、にわかに驟雨《しゅうう》がざっ[#「ざっ」に傍点]と降り出した。
かれらは雨具を持っていなかった。しかもこの当時は学堂の制度がはなはだ厳重で、無断外泊などは決して許されないので、かれらは引っ返して酒屋へ行って、単衣《ひとえ》の衾《よぎ》を借りた。その衾の四隅を竹でささえて、大勢がその下へはいって駈けて来ると、学堂の墻《かき》に近づいた頃に、夜廻りの者が松明《たいまつ》を持って、火の用心を呼びながら来たので、これに見付けられては大変だと思って、かれらは俄かに立ちすくんだ。双方相|距《さ》ること二十余歩、夜廻りの者は俄かに引っ返して、あとをも見ずに走り去ったので、かれらはその間に墻を乗り越えてはいったが、内心びくびくしていた。おそらく無断外出を夜廻りに見付けられて、譴責《けんせき》を受けるか、退学を命ぜられるかと、その夜は碌々眠られなかった。
その明くる日である。夜廻りの邏卒《らそつ》が府庁に出て申し立てた。
「昨夜の二更《にこう》、大雨の最中に、しかじかの処を廻って居りますと、忽ちに一つの怪物が北の方角から参りました。上は四角で平らで、蓆《むしろ》のようで、糢糊《もこ》として判りません。その下にはおよそ二、三十の足のような物がありまして、人のようにぞろぞろと歩いて参りまして、学校の墻のあたりへ来て消え失せました」
その報告におどろいた郡守以下の役人らは、それがいかなる怪物であるか、ほとんど想像が付かなかった。その噂がそれからそれへと拡まって、何か巨大な怪物がここらに出現するという風説が騒がしくなった。
町々では厄払いの道場を設けて、三昼夜の祈祷をおこない、その怪物の絵姿をかいて神社の前で磔刑《はりつけ》にした。
世の怪談にはこの類が少なくない。
術くらべ
鼎《てい》州の開元寺
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