て男は立ち去った。しかも僧は顫《ふる》えがやまらないので、暫くその民家に休ませてもらって、ようよう気が鎮まったのちに我が寺へ帰ると、彼と同名異姓の僧がその晩に死んだ。
異亀
唐の玄宗帝の時に、ある方士《ほうし》が一頭の小さい亀を献上した。亀はさしわたし一寸ぐらいで、金色の可愛らしい物であった。
「この亀は神のごとくで、物なども食いません。これを枕の笥《はこ》のなかに入れて置けば、うわばみの毒を避けることが出来ます」と、方士は言った。
それから間もなく、帝の恩寵をこうむっている宦者《かんじゃ》が何か親族の罪に連坐《れんざ》して、遠い南の国へ流しやられることになった。帝は不憫に思ったが、法を枉《ま》げて彼を免《ゆる》すことを好まないので、ひそかにその亀を彼にあたえた。
「南方の僻地《へきち》には大蛇が多い。常にこの亀をそばに置いて、害を防げ」
宦者はありがたく頂戴して出た。そうして、南へくだる途中、象郡のある村に着いた。町も旅館もひっそりしていて、宿には他の泊まり客もなく、自分の食膳も馬のまぐさも部屋のともしびもみな不自由なしに整えられた。
その夜は昼のような明月であったが、しかも雨風の声が遠くきこえた。その声がだんだんに近づいて来るので、宦者はここぞと思って、かの亀を取り出して階上に置くと、やや暫くして亀は首を伸ばして一道の気を吐いた。その気はかんむりの紐ぐらいの太さで、まっすぐに三、四尺ほどもあがって徐々に消え失せた。その後は亀も常のごとくに遊んでいて、先にきこえた風雨の声もやんだ。
夜が明けると、駅の役人らもおいおいに出て来て、庭前に拝礼した。
「昨日あなたがお出でになるのを知って、打ち揃ってお迎いに出る途中、あやまって一匹の蛇を殺しました。それは報寃蛇《ほうえんだ》で、今夜きっとその祟りを受けるに相違ないので、あたりの者はみな三十里五十里の遠方へ立ち退いて、その毒気を避けましたが、わたくしどもは遠方まで立ち去らず、近所の山の岩窟にかくれて夜の明けるのを待って居りました。唯今これへ来て見れば、あなたはつつがなく一夜をおすごしなされた御様子、これは神の助けと申すもので、人間の力では及ばない事でございます」
そのうちに往来の人もだんだんに来た。その話によると、これからさきの道にあたって、十数頭のうわばみが総身くずれただれて死んでいたという。その以
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