なかに女の姿が見えなくなった。
 崔はおどろいて、さては他に姦夫《かんぷ》があるのかと、憤怒《いきどおり》に堪えぬままに起き出でて室外をさまよっている時、おぼろの月のひかりに照らされて、彼女は屋上から飛び降りて来た。白の練絹を身にまとって、右の手には、匕首《あいくち》、左の手には一人の首をたずさえているのである。
「わたくしの父は罪なくして郡守に殺されました。その仇を報ずるために、城中に入り込んで数年を送りましたが、今や本意を遂げました。ここに長居は出来ません。もうお暇《いとま》をいたします」
 彼女は身支度して、かの首をふくろに収め、それを小脇にかかえて言った。
「わたくしは二年間あなたのお世話になりまして、幸いに一人の子を儲けました。この住居も二人の奉公人もすべてあなたに差し上げますから、どうぞ子供の養育を願います」
 男に別れて墻《かき》を越え、家を越えて立ち去ったので、崔も暫くはただ驚嘆するのみであった。やがて女はまた引っ返して来た。
「子供に乳をやって行くのを忘れましたから、ちょっと飲ませて来ます」
 彼女は室内にはいったが、やや暫くして出て来た。
「乳をたんと飲ませました」
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