ままで奔《はし》り避けた。やがて巌穴のなかでは雷の吼えるような声がして、大蛇《だいじゃ》は躍り出てのたうち廻ると、数里のあいだの木も草も皆その毒気に焼けるばかりであった。蛇は狂い疲れて、日の暮れる頃に仆《たお》れた。
 それから穴のあたりを窺うと、そこには象の骨と牙とが、山のように積まれていた。十頭の象があらわれて来て、その長い鼻で紅《あか》い牙一枚ずつを捲いて蒋に献じた。それを見とどけて、猩々も別れて去った。蒋は初めの象に牙を積んで帰ったが、後にその牙を売って大いに資産を作った。[#地から1字上げ](伝奇)

   笛師

 唐の天宝の末に、安禄山《あんろくざん》が乱をおこして、潼関《どうかん》の守りも敗れた。都の人びとも四方へ散乱した。梨園《りえん》の弟子《ていし》のうちに笛師《ふえし》があって、これも都を落ちて終南山《しゅうなんざん》の奥に隠れていた。
 そこに古寺があったので、彼はそこに身を忍ばせていると、ある夜、風清く月明らかであるので、彼はやるかたもなき思いを笛に寄せて一曲吹きすさむと、嚠喨《りゅうりょう》の声は山や谷にひびき渡った。たちまちにそこへ怪しい物がはいって来た。かしらは虎で、かたちは人、身には白い着物を被《き》ていた。
 笛師はおどろき懼《おそ》れて、階をくだって立ちすくんでいると、その人は言った。
「いい笛の音《ね》だ。もっと吹いてくれ」
 よんどころなしに五、六曲を吹きつづけると、その人はいい心持そうに聴きほれていたが、やがておおいびきで寝てしまった。笛師はそっと抜け出して、そこらの高い樹《き》の上に攀《よ》じ登ると、枝や葉が繁っているので、自分の影をかくすに都合がよかった。やがてその人は眼をさまして、笛師の見えないのに落胆したらしく、大きい溜め息をついた。
「早く喰わなかったので、逃がしてしまった」
 彼は立って、長くうそぶくと、暫くして十数頭の虎が集まって来て、その前にひざまずいた。
「笛吹きの小僧め、おれの寝ている間に逃げて行った。路を分けて探して来い」と、かれは命令した。
 虎の群れはこころ得て立ち去ったが、夜の五更《ごこう》の頃に帰って来て、人のように言った。
「四、五里のところを探し歩きましたが、見付かりませんでした」
 その時、月は落ちかかって、斜めに照らす光りが樹の上の人物を映し出した。それを見てかれは笑った。
「貴様は雲かすみと消え失せたかと思ったが、はは、此処《ここ》にいたのか」
 かれは虎の群れに指図して、笛師を取らせようとしたが、樹が高いので飛び付くことが出来ない。かれも幾たびか身を跳らせたが、やはり目的を達しなかった。かれらもとうとう思い切って立ち去ると、やがて夜もあけて往来の人も通りかかったので、笛師は無事に樹から離れた。[#地から1字上げ](広異記)

   担生

 昔、ある書生が路で小さい蛇に出逢った。持ち帰って養っていると、数月の後にはだんだんに大きくなった。書生はいつもそれを担《にな》いあるいて、かれを担生《たんせい》と呼んでいたが、蛇はいよいよ長大になって、もう担い切れなくなったので、これを范《はん》県の東の大きい沼のなかへ放してやった。
 それから四十余年の月日は過ぎた。かの蛇は舟をくつがえすような大蛇《だいじゃ》となって、土地の人びとに沼の主《ぬし》と呼ばれるようになった。迂闊に沼に入る者は、かならず彼に呑まれてしまった。一方の書生は年すでに老いて他国にあり、何かの旅であたかもこの沼のほとりを通りかかると、土地の者が彼に注意した。
「この沼には大蛇が棲んでいて人を食いますから、その近所を通らないがよろしゅうございます」
 時は冬の最中《さなか》で、気候も甚だ寒かったので、今ごろ蛇の出る筈はないと、書生は肯《き》かずにその沼へさしかかった。行くこと二十里余、たちまち大蛇があらわれて書生のあとを追って来た。書生はその蛇の形や色を見おぼえていた。
「おまえは担生ではないか」
 それを聞くと、蛇はかしらを垂れて、やがてしずかに立ち去った。書生は無事に范県にゆき着くと、県令は蛇を見たかと訊いた。見たと答えると、その蛇に逢いながら無事であったのは怪しいというので、書生はひとまず獄屋につながれた。結局、彼も妖妄《ようもう》の徒であると認められて、死刑におこなわれることになった。書生は心中大いに憤った。
「担生の奴め。おれは貴様を養ってやったのに、かえっておれを死地におとしいれるとは何たることだ」
 蛇はその夜、県城を攻め落して一面の湖《みずうみ》とした。唯その獄屋だけには水が浸《ひた》さなかったので、書生は幸いに死をまぬかれた。
 天宝の末年に独孤暹《どっこせん》という者があって、その舅《しゅうと》は范県の県令となっていた。三月三日、家内の者どもと湖水に舟を浮かべている
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