中国怪奇小説集
白猿伝・其他
岡本綺堂

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)拾遺《しゅうい》といった

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)平南将軍|藺欽《りんきん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)欧陽※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]《おうようこつ》
−−

 第五の男は語る。
「唯今は『酉陽雑爼』と『宣室志』のお話がありました。そこで、わたくしには其の拾遺《しゅうい》といったような意味で、唐代の怪談総まくりのようなものを話せという御注文ですが、これはなかなか大変でございます。とても短い時間に出来ることではありません。勿論、著名の物を少々ばかり紹介いたすに過ぎないと御承知ください。就きましては、まず『白猿伝』を申し上げます。この作者の名は伝わって居りません。唐に欧陽詢《おうようじゅん》という大学者がありまして、後に渤海男《ぼっかいだん》に封《ほう》ぜられましたが、この人の顔が猿に似ているというので、或る人がいたずらにこんな伝奇を創作したのであって、本当に有った事ではないという説があります。しかし〈志怪の書〉について、その事実の有無を論議するのは、無用の弁に近いかとも思われます。ともかくも古来有名な物になって居りまして、かの頼光《らいこう》の大江山《おおえやま》入りなども恐らくこれが粉本《ふんぼん》であろうと思われますから、事実の有無《うむ》を問わず、ここに紹介することに致します。
 そのほかには、原化記《げんかき》、朝野僉載《ちょうやせんさい》、博異記《はくいき》、伝奇、広異記《こういき》、幻異志《げんいし》などから、面白そうな話を選んで申し上げたいと存じます。これらもみな有名の著作でありまして、一つ一つ独立して紹介するの価値があるのでございますが、あとがつかえて居りますから、そのなかで特色のあるお話を幾つか拾い出すにとどめて置きます。右あらかじめお含み置きください」

   白猿伝

 梁《りょう》(六朝《りくちょう》)の大同《だいどう》の末年、平南将軍|藺欽《りんきん》をつかわして南方を征討せしめた。その軍は桂林《けいりん》に至って、李師古《りしこ》と陳徹《ちんてつ》を撃破した。別将の欧陽※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]《おうようこつ》は各地を攻略して長楽《ちょうらく》に至り、ことごとく諸洞の敵をたいらげて、深く険阻《けんそ》の地に入り込んだ。
 欧陽※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]の妻は白面細腰《はくめんさいよう》、世に優れたる美人であったので、部下の者は彼に注意した。
「将軍はなぜ麗人を同道して、こんな蕃地へ踏み込んでお出《い》でになったのです。ここらの山の神は若い女をぬすむといいます。殊に美しい人はあぶのうございますから、よく気をお付けにならなければいけません」
 ※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]はそれを聞いて甚だ不安になった。夜は兵をあつめて宿舎の周囲を守らせ、妻を室内に深く閉じ籠めて、下婢《かひ》十余人を付き添わせて置くと、その夜は暗い風が吹いた。五更《ごこう》(午前三時―五時)に至るまで寂然《せきぜん》として物音もきこえないので、守る者も油断して仮寝《うたたね》をしていると、たちまち何物かはいって来たらしいので驚いて眼をさますと、将軍の妻はすでに行くえ不明であった。扉《とびら》はすべて閉じたままで、どこから出入りしたか判らない。門の外は嶮《けわ》しい峰つづきで、眼さきも見えない闇夜にはどこへ追ってゆくすべもない。夜が明けても、そこらになんの手がかりも見いだされなかった。
 ※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]の痛憤はいうまでもない。彼はこのままむなしく還《かえ》らないと決心して、病いと称してここに軍を駐《とど》め、毎日四方を駈けめぐって険阻の奥まで探り明かした。こうしてひと月あまりを経たるのち、百里(六丁一里)ほどを隔てた竹藪で妻の繍履《ぬいぐつ》の片足を見付け出した。雨に湿《ぬ》れ朽ちてはいたが、確かにそれと認められたので、※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]はいよいよ悲しみ怒って、そのゆくえ捜索の決心をますます固めた。
 彼は三十人の壮士をすぐって、武器をたずさえ、糧食を背負い、巌窟《がんくつ》に寝《い》ね、野原で食事をして、十日あまりも進むうちに、宿舎を去ること二百里、南のかたに一つの山を認めた。山は青く秀《ひい》でて、その下には深い渓《たに》をめぐらしていた。一行は木を編んで、嶮しい巌や翠《あお》い竹のあいだを渡り越えると、時に紅い衣《きもの》が見えたり、笑い声がきこえたりした。
 蔦《つた》かずらを攀
次へ
全8ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング