って睡眠中の公主の顔を撫でた。思わず頭をあげるあいだに、かれは他の枕と掏《す》りかえて来た。公主は夜の明けるまでそれを覚らなかった。
又ある時、彼は吉莫靴《かわぐつ》をはいて、石瓦の城に駈けあがった。城上の墻《かき》には手がかりがないので、かれは足をもって仏殿の柱を踏んで、檐《のき》さきに達し、さらに椽《たるき》を攀《よ》じて百尺の楼閣に至った。実になんの苦もないのである。太宗帝は不思議に思った。
「こういう男は都の近所に置かない方がよい」
彼は地方官として遠いところへ遷《うつ》された。時の人びとは彼を称して壁龍《へきりゅう》といった。
太宗は又かつて長孫無忌に七宝帯を賜わった。そのあたい千金である。この当時、段師子《だんしし》と呼ばれる大泥坊があって、屋上の椽のあいだから潜り込んで無忌の枕もとに降り立った。
「動くと、命がありませんぞ」
彼は白刃を突き付けて、その枕の函の中から七宝帯を取り出した。更にその白刃を床に突き立てて、それを力に飛びあがって、ふたたび元の椽のあいだから逃げ去った。[#地から1字上げ](同上)
登仙奇談
唐の天宝《てんぽう》年中、河南※[#「糸+侯」、第4水準2−84−44]子《かなんこうし》県の仙鶴観《せんかくかん》には常に七十余人の道士が住んでいた。いずれも専ら修道を怠らない人びとで、未熟の者はここに入ることが出来なかった。
ここに修業の道士は、毎年九月三日の夜をもって、一人は登仙《とうせん》することを得るという旧例があった。
夜が明ければ、その姓名をしるして届け出るのである。勿論、誰が登仙し得るか判らないので、毎年その夜になると、すべての道士らはみな戸を閉じず、思い思いに独り歩きをして、天の迎いを待つのであった。
張竭忠《ちょうけっちゅう》がここの県令となった時、その事あるを信じなかった。そこで、九月三日の夜二人の勇者に命じて、武器をたずさえて窺わせると、宵のあいだは何事もなかったが、夜も三更《さんこう》に至る頃、一匹の黒い虎が寺内へ入《い》り来たって、一人の道士をくわえて出た。それと見て二人は矢を射かけたが中《あた》らなかった。しかも虎は道士を捨てて走り去った。
夜が明けて調べると、昨夜は誰も仙人になった者はなかった。二人はそれを張に報告すると、張は更に府に申し立てて、弓矢の人数をあつめ、仙鶴観に近い太子陵の東にある石穴のなかを猟《あさ》ると、ここに幾匹の虎を獲た。穴の奥には道士の衣冠や金簡のたぐい、人の毛髪や骨のたぐいがたくさんに残っていた。これがすなわち毎年仙人になったという道士の身の果てであった。
その以来、仙鶴観に住む道士も次第に絶えて、今は陵を守る役人らの住居となっている。[#地から1字上げ](博異記)
蒋武
唐の宝暦《ほうれき》年中、循州河源《じゅんしゅうかげん》に蒋武《しょうぶ》という男があった。骨格たくましく、豪胆剛勇の生まれで、山中の巌窟に独居して、狩猟に日を送っていた。彼は蹶張《けっちょう》を得意とし、熊や虎や豹《ひょう》が、その弦音《つるおと》に応じて斃《たお》れた。蹶張というのは片足で弓を踏ん張って射るのである。その鏃《やじり》をあらためると、皆その獣の心《むね》をつらぬいていた。
ある時、甚だ忙がしそうに門を叩く者があるので、蒋は扉を隔ててうかがうと、一匹の猩々《しょうじょう》が白い象にまたがっていた。蒋は猩々がよく人の言葉を語ることを知っているので、内から訊《き》いた。
「象と一緒に来たのはどういうわけだ」
「象に危難が逼《せま》って居ります。わたくしに人間の話が出来るというので、わたくしを乗せてお願いに出たのでございます」と、猩々は答えた。
「その危難のわけを言え」と、蒋はまた訊いた。
「この山の南二百余里のところに、天にそびゆる大きい巌穴《いわあな》がございます」と、猩々は言った。「そのなかに長さ数百尺の巴蛇《うわばみ》が棲んで居ります。その眼はいなずまのごとく、その牙《きば》はつるぎの如くで、そこを通る象の一類はみな呑まれたり噬《か》まれたりします。その難に遭うもの幾百、もはや逃げ隠れるすべもありません。あなたが弓矢を善くするのを存じて居りますので、どうぞ毒矢をもってかれを射殺して、われわれの患《うれ》いを除いて下されば、かならず御恩報じをいたします」
象もまた地にひざまずいて、涙を雨のごとくに流した。
「御承知ならば、矢をたずさえてお乗り下さい」と、猩々はうながした。
蒋は矢に毒を塗って、象の背にまたがった。行けば果たして巌の下に二つの眼が輝いて、その光りは数百歩を射るのであった。
「あれが蛇の眼です」と、猩々は教えた。
それを見て、蒋も怒った。彼は得意の蹶張をこころみて、ひと矢で蛇の眼を射ると、象は彼を乗せた
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