かすみと消え失せたかと思ったが、はは、此処《ここ》にいたのか」
かれは虎の群れに指図して、笛師を取らせようとしたが、樹が高いので飛び付くことが出来ない。かれも幾たびか身を跳らせたが、やはり目的を達しなかった。かれらもとうとう思い切って立ち去ると、やがて夜もあけて往来の人も通りかかったので、笛師は無事に樹から離れた。[#地から1字上げ](広異記)
担生
昔、ある書生が路で小さい蛇に出逢った。持ち帰って養っていると、数月の後にはだんだんに大きくなった。書生はいつもそれを担《にな》いあるいて、かれを担生《たんせい》と呼んでいたが、蛇はいよいよ長大になって、もう担い切れなくなったので、これを范《はん》県の東の大きい沼のなかへ放してやった。
それから四十余年の月日は過ぎた。かの蛇は舟をくつがえすような大蛇《だいじゃ》となって、土地の人びとに沼の主《ぬし》と呼ばれるようになった。迂闊に沼に入る者は、かならず彼に呑まれてしまった。一方の書生は年すでに老いて他国にあり、何かの旅であたかもこの沼のほとりを通りかかると、土地の者が彼に注意した。
「この沼には大蛇が棲んでいて人を食いますから、その近所を通らないがよろしゅうございます」
時は冬の最中《さなか》で、気候も甚だ寒かったので、今ごろ蛇の出る筈はないと、書生は肯《き》かずにその沼へさしかかった。行くこと二十里余、たちまち大蛇があらわれて書生のあとを追って来た。書生はその蛇の形や色を見おぼえていた。
「おまえは担生ではないか」
それを聞くと、蛇はかしらを垂れて、やがてしずかに立ち去った。書生は無事に范県にゆき着くと、県令は蛇を見たかと訊いた。見たと答えると、その蛇に逢いながら無事であったのは怪しいというので、書生はひとまず獄屋につながれた。結局、彼も妖妄《ようもう》の徒であると認められて、死刑におこなわれることになった。書生は心中大いに憤った。
「担生の奴め。おれは貴様を養ってやったのに、かえっておれを死地におとしいれるとは何たることだ」
蛇はその夜、県城を攻め落して一面の湖《みずうみ》とした。唯その獄屋だけには水が浸《ひた》さなかったので、書生は幸いに死をまぬかれた。
天宝の末年に独孤暹《どっこせん》という者があって、その舅《しゅうと》は范県の県令となっていた。三月三日、家内の者どもと湖水に舟を浮かべている
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