知の旨を答えたが、まだ東の空が白みかけたばかりであるので、又もやうとうとと眠っていると、かの婦人が三たび現われた。その顔色は惨として、いかにも危難がその身に迫っているらしく見えた。
「わたくしの命はいよいよ危うくなりました。もう半ときの猶予もなりません。どうぞ早くお救いください。お願いでございます」
 一夜のうちに三度もおなじ夢を見たので、先生も考えさせられた。あるいは何か役人らのうちに不幸の者でもあるのかと思った。あるいは今朝の饗応について、何かの鳥か魚が殺されるのではないかとも思った。いずれにしても、行ってみたら判るかも知れないと思ったので、すぐに支度をして饗宴の席に臨んだ。そうして、主人にむかってかの夢の話をすると、彼も不思議そうに首をかたむけながら、ともかくも下役人を呼んで取調べると、役人は答えた。
「実は一日前に、大きい黄魚《こうぎょ》(石首魚《いしもち》)が漁師の網にかかりましたので、それを料理してお客さまに差し上げようと存じましたが……」
「その魚はまだ活かしてあるか」と、先生は訊いた。
「いえ、たった今その首を斬りました」
 先生は思わずあっ[#「あっ」に傍点]と言った。今更どうにもならないが、せめてもの心ゆかしに、その魚の死骸を河へ投げ捨てさせて出発した。
 その夜の夢に、かの黄衣の婦人が又もや先生の前にあらわれたが、彼女には首がなかった。それがためか、先生は大臣にも大将にもなれず、ついに柳州の刺史《しし》をもって終った。

   玄陰池

 太原《たいげん》の商人に石憲《せきけん》という者があった。唐の長慶《ちょうけい》二年の夏、北方へあきないに行って、雁門関《がんもんかん》を出た。時は夏の日盛りで、旅行はすこぶる難儀であるので、彼は路ばたの大樹の下に寝ころんでいるうちに、いつかうとうとと眠ってしまった。
 たちまちにそこへ一人の僧があらわれた。かれは褐色《かっしょく》の法衣《ころも》を着て、その顔も風体《ふうてい》もなんだか異様にみえたが、石《せき》にむかって親しげに話しかけた。
「われわれは五台山の南に廬《いおり》を構えていた者でござるが、そのあたりは森も深く、水も深く、塵俗《じんぞく》を遠く離れたところでござれば、あなたも一緒にお出でなさらぬか。さもないと、あなたは暑さにあたって死にましょうぞ」
 実際暑さに苦しんでいるので、石はその言うが
前へ 次へ
全14ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング