うべにこの怪を見て、孟はどうしても眠ることが出来なかったが、張は酔って高|鼾《いびき》で寝てしまった。供の者は遠い部屋に退いて、張の寝間は彼ひとりであった。その夜も三更《さんこう》(午後十一時―午前一時)に及ぶころおいに、孟もさすがに疲れてうとうとと眠ったかと思うと、唯ならぬ物音にたちまち驚き醒めた。一人の黒い衣《きもの》を着た男が張と取っ組み合っているのである。やがて組んだままで東の部屋へ転げ込んで、たがいに撲《なぐ》り合う拳《こぶし》の音が杵《きね》のようにきこえた。孟は息を殺してその成り行きをうかがっていると、暫くして張は散らし髪の両肌ぬぎで出て来て、そのまま自分の寝床にあがって、さも疲れたように再び高鼾で寝てしまった。
 五更《ごこう》(午前三時―五時)に至って、張はまた起きた。僕《しもべ》を呼んで燈火をつけさせ、髪をくしけずり、衣服をととのえて、改めて同宿の孟に挨拶した。
「昨夜は酔っていたので、あなたのことをちっとも知らず、甚だ失礼をいたしました」
 それから食事を言い付けて、孟と一緒に仲よく箸をとった。そのあいだに、彼は小声で言った。
「いや、まだほかにもお詫びを致すこと
前へ 次へ
全41ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング