、奴僕はだしぬけに二人に言った。
「おまえ達はそこらの高い樹に登って、おれのする事を見物していろ」
二人はその言うがままにすると、彼はかたわらの藪《やぶ》へはいって行ったが、やがて一匹の黄いろい斑《ふ》のある大虎が藪のなかから跳り出て、すさまじい唸《うな》り声をあげてたけり狂うので、樹の上にいる女たちはおどろいて身をすくめていると、虎は再び元の藪へ帰った。これで先ずほっとしていると、やがて又、彼は人間のすがたで現われた。
「このことを決して他言するなよ」
しかしあまりの不思議におどろかされて、女たちはそれを同輩に洩らしたので、遂に主人の耳にもきこえた。そこで、彼に好《よ》い酒を飲ませて、その熟酔するのを窺って、主人はその衣服を解き、身のまわりをも検査したが、別にこれぞという物をも発見しなかった。更にその髪を解くと、頭髻《もとどり》のなかから一枚の紙があらわれた。紙には一つの虎を描いて、そのまわりに何か呪文《じゅもん》のようなことが記してあったので、主人はその文句を写し取った。そうして、酔いの醒めるのを待って詮議すると、彼も今更つつみ切れないと覚悟して、つぶさにその事情を説明した。
彼の言うところに拠ると、先年かの蛮地の奥へ米を売りに行ったときに、三尺の布と、幾|升《しょう》の糧米《りょうまい》と、一羽の赤い雄※[#「鷄」の「鳥」に代えて「隹」、第3水準1−93−66]《おんどり》と、一升の酒とを或る蛮人に贈って、生きながら虎に変ずるの秘法を伝えられたのであった。
雷車
東晋の永和《えいわ》年中に、義興《ぎこう》の周《しゅう》という姓の人が都を出た。主人は馬に乗り、従者二人が付き添ってゆくと、今夜の宿りを求むべき村里へ行き着かないうちに、日が暮れかかった。
路ばたに一軒の新しい草葺《くさぶ》きの家があって、ひとりの女が門《かど》に立っていた。女は十六、七で、ここらには珍しい上品な顔容《かおかたち》で、着物も鮮麗である。彼女は周に声をかけた。
「もうやがて日が暮れます。次の村へ行き着くのさえ覚束《おぼつか》ないのに、どうして臨賀《りんが》まで行かれましょう」
周は臨賀という所まで行くのではなかったが、次の村へも覚束ないと聞いて、今夜はここの家《うち》へ泊めて貰うことにすると、女はかいがいしく立ち働いて、火をおこして、湯を沸かして、晩飯を食わせてくれた。
やがて夜の初更《しょこう》(午後七時―九時)とおぼしき頃に、家の外から小児《こども》の呼ぶ声がきこえた。
「阿香《あこう》」
それは女の名であるらしく、振り返って返事をすると、外ではまた言った。
「おまえに御用がある。雷車《らいしゃ》を推せという仰せだ」
「はい、はい」
外の声はそれぎりで止むと、女は周にむかって言った。
「折角《せっかく》お泊まり下すっても、おかまい申すことも出来ません。わたくしは急用が起りましたので、すぐに行ってまいります」
女は早々に出て行った。雷車を推せとはどういう事であろうと、周は従者らと噂をしていると、やがて夜半から大雷雨になったので、三人は顔をみあわせた。
雷雨は暁け方にやむと、つづいて女は帰って来たので、彼女がいよいよ唯者《ただもの》でないことを三人は覚《さと》った。鄭重《ていちょう》に礼をのべて、彼女にわかれて、門を出てから見かえると、女のすがたも草の家も忽ち跡なく消えうせて、そこには新しい塚があるばかりであったので、三人は又もや顔を見あわせた。
それにつけても、彼女が「臨賀までは遠い」と言ったのはどういう意味であるか、かれらにも判らなかった。しかも幾年の後に、その謎の解ける時節が来た。周は立身して臨賀の太守となったのである。
武陵桃林
東晋《とうしん》の太元《たいげん》年中に武陵《ぶりょう》の黄道真《こうどうしん》という漁人《ぎょじん》が魚を捕りに出て、渓川《たにがわ》に沿うて漕いで行くうちに、どのくらい深入りをしたか知らないが、たちまち桃の林を見いだした。
桃の花は岸を挟んで一面に紅く咲きみだれていて、ほとんど他の雑木はなかった。黄は不思議に思って、なおも奥ふかく進んでゆくと、桃の林の尽くるところに、川の水源《みなもと》がある。そこには一つの山があって、山には小さい洞《ほら》がある。洞の奥からは光りが洩れる。彼は舟から上がって、その洞穴の門をくぐってゆくと、初めのうちは甚だ狭く、わずかに一人を通ずるくらいであったが、また行くこと数十歩にして俄かに眼さきは広くなった。
そこには立派な家屋もあれば、よい田畑もあり、桑もあれば竹もある。路も縦横に開けて、※[#「鷄」の「鳥」に代えて「隹」、第3水準1−93−66]《とり》や犬の声もきこえる。そこらを往来している男も女も、衣服はみな他国人のような姿である
前へ
次へ
全9ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング