どまることを願ったが、女は肯《き》かなかった。俄かに風雨が起って、彼女は姿をかくした。その後、彼は神座をしつらえて、祭祀《さいし》を怠らなかったが、その生活はすこぶる豊かで、ただ大いに富むというほどでないだけであった。土地の人の世話で妻を迎え、後に仕えて令長となった。
 今の素女祠《そじょし》がその遺跡である。

   千年の鶴

 丁令威《ていれいい》は遼東《りょうとう》の人で、仙術を霊虚山《れいきょざん》に学んだが、後に鶴に化《け》して遼東へ帰って来て、城門の柱に止まった。ある若者が弓をひいて射ようとすると、鶴は飛びあがって空中を舞いながら言った。
「鳥あり、鳥あり、丁令威。家を去る千年、今始めて帰る。城廓|故《もと》の如くにして、人民非なり。なんぞ仙を学ばざるか、塚|※[#「田/(田+田)/糸」、第3水準1−90−24]々《るいるい》たり」
 遂に大空高く飛び去った。今でも遼東の若者らは、自分たちの先代に仙人となった者があると言い伝えているが、それが丁令威という人であることを知らない。

   箏笛浦

 廬江《ろこう》の箏笛浦《そうてきほ》には大きい船がくつがえって水底に沈んでいる。これは魏《ぎ》王|曹操《そうそう》の船であると伝えられている。
 ある時、漁師が夜中に船を繋いでいると、そのあたりに笛や歌の声がきこえて、香《こう》の匂いが漂っていた。漁師が眠りに就くと、なにびとか来て注意した。
「官船に近づいてはならぬぞ」
 おどろいて眼をさまして、漁師はわが船を他の場所へ移した。沈んでいる船は幾人の歌妓《うたひめ》を載せて来て、ここの浦で顛覆《てんぷく》したのであるという。

   凶宅

 宋の襄城《じょうじょう》の李頤《りい》、字《あざな》は景真《けいしん》、後に湘東《しょうとう》の太守になった人であるが、その父は妖邪を信じない性質であった。近所に一軒の凶宅があって、住む者はかならず死ぬと言い伝えられているのを、父は買い取って住んでいたが、多年無事で子孫繁昌した。
 そのうちに、父は県知事に昇って移転することになったので、内外の親戚らを招いて留別《りゅうべつ》の宴を開いた。その宴席で父は言った。
「およそ天下に吉だとか凶だとかいう事があるだろうか。この家もむかしから凶宅だといわれていたが、わたしが多年住んでいるうちに何事もなく、家はますます繁昌して今度も栄転することになった。鬼などというものが一体どこにいるのだ。この家も凶宅どころか、今後は吉宅となるだろう。誰でも勝手にお住みなさい」
 そう言い終って、彼は起《た》って厠《かわや》へゆくと、その壁に蓆《むしろ》を巻いたような物が見えた。高さ五尺ばかりで、白い。彼は引っ返して刀を取って来て、その白い物を真っ二つに切ると、それが分かれて二つの人になった。さらに横なぐりに切り払うと、今度は四人になった。その四人が父の刀を奪い取って、その場で彼を斬り殺したばかりか、座敷へ乱入してその子弟を片端から斬り殺した。
 李姓の者はみな殺されて、他姓の者は無事にまぬかれた。
 そのとき李頤だけはまだ幼少で、その席に居合わせなかったので、変事の起ったのを知ると共に、乳母が抱えて裏門から逃げ出して、他家に隠れて幸いに命を全うした。

   蛟を生む

 長沙《ちょうさ》の人とばかりで、その姓名を忘れたが、家は江辺に住んでいた。その娘が岸へ出て衣《きもの》を濯《すす》いでいると、なんだか身内に異状があるように感じたが、後には馴れて気にもかけなかった。
 娘はいつか懐妊して、三つの生き物を生み落したが、それは小鰯《こいわし》のような物であった。それでも自分の生んだ物であるので、娘は憐れみいつくしんで、かれらを行水《ぎょうずい》の盥《たらい》のなかに養って置くと、三月ほどの後にだんだん大きくなって、それが蛟《みずち》の子であることが判った。蛟は龍《りゅう》のたぐいである。かれらにはそれぞれの字《あざな》をあたえて、大を当洪《とうこう》といい、次を破阻《はそ》といい、次を撲岸《ぼくがん》と呼んだ。
 そのうちに暴雨出水と共に、三つの蛟はみな行くえを晦《くら》ましたが、その後も雨が降りそうな日には、かれらが何処からか姿を見せた。娘も子供らの来そうなことを知って、岸辺へ出て眺めていると、蛟もまた頭《かしら》をあげて母をながめて去った。
 年を経て、その娘は死んだ。三つの蛟は又あらわれて母の墓所に赴き、幾日も号哭《ごうこく》して去った。その哭《な》く声は狗《いぬ》のようであった。

   秘術

 銭塘《せんとう》の杜子恭《としきょう》は秘術を知っていた。かつて或る人から瓜を割《さ》く刀を借りたので、その持ち主が返してくれと催促すると、彼は答えた。
「すぐにお返し申します」
 やがて其の人が嘉興《かこ
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