れていたが、彼は平気で眠っていると、夜の四更《しこう》(午前一時―三時)とおぼしき頃に、黄衣の人が現われて外から呼んだ。
「幼輿《ようよ》、戸をあけろ」
 幼輿というのは彼の字《あざな》である。こいつ化け物だと思ったが、彼は恐れずに答えた。
「戸をあけるのは面倒だ。用があるなら窓から手を出せ」
 言うかと思うと、外の人は窓から長い腕を突っ込んだので、彼は直ぐにその腕を引っ掴んで、力任せにぐいぐい引き摺り込もうとした。外では引き込まれまいとする。引きつ引かれつするうちに、その腕は脱けて彼の手に残った。外の人はそのまま立ち去ったらしい。夜が明けてみると、その腕は大きい鹿の前足であった。
 窓の外には血が流れている。その血の痕《あと》をたどってゆくと、果たして一頭の大きい鹿が傷ついて仆《たお》れていた。それを殺して以来、この家にふたたび妖怪の噂を聞かなくなった。

   羽衣

 予章|新喩《しんゆ》県のある男が田畑へ出ると、田のなかに六、七人の女を見た。どの女もみな鳥のような羽衣《はごろも》を着ているのである。不思議に思ってそっと這いよると、あたかもその一人が羽衣を解《と》いたので、彼は急
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