うに何事かささやくと、義助もおどろいたように眼をみはった。二人は無言でしばらく顔を見あわせていたが、義助は茶屋の婆さんに向って小声で訊いた。
「あの毛皮売のじいさんは何という男だね。」
「その奈良井の宿《しゅく》はずれに住んでいる男で、伊平と申します。」
「あの娘の名は。」
「お糸といいます。」
それからだんだん詮議すると、お糸は伊平の娘でも孫でもなく、去年の秋ももう寒くなりかかった夕ぐれに、ひとりの若い娘が落葉を浴びながら伊平の門口《かどぐち》に立って、今夜泊めてくれと頼んだ。ひとり旅の女を泊めるのは迷惑だとも思ったが、その頼りない姿が不憫でもあるので、伊平は宿《しゅく》の役人に届けた上で、娘に一夜のやどりを許すことになると、その夜なかに伊平は俄に発熱して苦しみ出した。
伊平は独り者で、病気は風邪をこじらせたのであったが、幸いに娘が泊り合せていたので、彼は親切な介抱をうけた。独り身の病人を見捨てては出られないので、娘はその次の日も留まって看病していたが伊平は容易に起きられなかった。そして、三日過ぎ、五日を送って、伊平が元のからだになるまでには小半月を過ぎてしまった。そのあいだ、かの娘は他人とは思えない程にかいがいしく立ち働いて、伊平を感謝させた。近所の人達からも褒められた。
娘は江戸の生れであるが、七つの時に京へ移って、それから諸国を流浪して、しかも、継母《ままはは》にいじめられて、言いつくされない苦労をした末に、半分は乞食同様のありさまで、江戸の身寄りをたずねて下る途中であるが、長いあいだ音信不通であったので、その身寄りも今はどこに住んでいるか、よくは判らないというのである。
そういう身の上ならば、的《あて》もなしに江戸へ行くよりも、いっそここに足を留めてはどうだと、伊平は言った。近所の人たちも勧めた。娘もそうして下されば仕合せであると答えた。その以来、お糸という娘は養女でもなく、奉公人でもなく、差しあたりは何ということもなしに伊平の家に入り込んで、この頃では商売の手伝いまでもするようになった。お糸は色白の上に容貌《きりょう》も悪くない。小さいときから苦労をして来たというだけに、人付合いも悪くない。それやこれやで近所の評判もよく、伊平さんはよい娘を拾い当てたと噂されている。
婆さんの口からこんな話を聞かされているうちに、七兵衛ら三人は奥から出て来た。七
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