兵衛の顔には抑え切れない喜びの色がかがやいていた。
二
近江屋七兵衛がよろこぶのも無理はなかった。彼はこの木曾の奈良井の宿で、一旦失った手のうちの珠《たま》を偶然に発見したのである。
七兵衛は四谷の忍町に五代つづきの質屋を営んでいて、女房お此《この》と番頭庄右衛門のほかに、手代三人、小僧二人、女中二人、仲働き一人の十一人家内で、おもに近所の旗本や御家人《ごけにん》を得意にして、手堅い商売をしていた。ほかに地所|家作《かさく》なども持っていて、町内でも物持ちの一人にかぞえられ、何の不足もない身の上であったが、ただひとつの不足――というよりも、一つの大きい悲しみは娘お元のゆくえ不明の一件であった。
今から十一年前、寛政四年の暮春のゆうがたに、ことし七つのひとり娘お元が突然そのゆくえを晦《くら》ました。最初は表へ出て遊んでいるものと思って、誰も気に留めずにいたのであるが、夕飯頃になっても戻らないばかりか、近所にもその姿が見えないというので、家内は俄にさわぎ出した。七兵衛夫婦は気ちがいのようになって、それぞれに手分けをして探させたが、お元のゆくえは遂にわからなかった。
この時代には神隠しということが信じられた。人攫《ひとさら》いということもしばしば行われた。お元は色白の女の子であるから、悪者の手にかどわかされたのかも知れないという説が多かった。いずれにしても、ひとり娘を失った七兵衛夫婦の悲しみは、ここに説明するまでもない。お此はその後三月ほどもぶらぶら病で床についたほどであった。七兵衛も費用を惜しまずに、出来るかぎりの手段をめぐらして、娘のゆくえを探り求めたが、飛び去った雛鳥はふたたび元の籠《かご》に帰らなかった。
そのうちに、一年過ぎ、二年を過ぎて、近江屋の夫婦は諦められないながらに諦めるのほかはなかった。それでも何時《いつ》どこから戻って来るかも知れないという空頼みから、近江屋ではその後にも養子を貰おうとはしなかった。お元が無事であれば、ことしは十八の春を迎えることになる。ゆくえの知れない子供の年をかぞえて、お此は正月早々から涙をこぼした。
七兵衛が今度の伊勢まいりは四十二の厄除《やくよけ》というのであるが、そのついでに伊勢から奈良、京大阪を見物してあるく間に、もしやわが子にめぐり逢うことがないともいえない。そんな果敢《はか》ない望みも手伝って
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