。さりとて取留めた証拠もなしに、多年無事に勤めている奉公人、殊に先ごろは自分の供をして長い道中をつづけて来た義助を無造作に放逐することも出来ないので、ただ無言のうちにかれらを監視するのほかはなかった。
 うしなった娘を連れ戻って、一旦は俄に明るくなった近江屋の一家内には、またもや暗い影がさして、主人夫婦はとかくに内所話をする日が多くなった。この年は梅雨《つゆ》が長くつづいて、六月の初めになっても毎日じめじめしているのも、近江屋夫婦の心をいよいよ暗くした。
 その六月はじめの或る夜である。奥の八畳に寝ていたお此がふと眼をさますと、衾《よぎ》の襟のあたりに何か歩いているように感じられた。枕もとの有明行燈《ありあけあんどう》は消えているので、その物のすがたは見えなかったが、お此は咄嗟のあいだに覚った。
「あ、鼠……。」
 息を殺してうかがっていると、それは確かに小鼠で、お此の衾の襟から裾のあたりをちょろちょろと駈けめぐっているのである。お此は俄にぞっとして少しくわが身を起しながら、隣りの寝床にいる七兵衛の衾の袖をつかんで、小声で呼び起した。
「おまえさん……。起きてくださいよ。」
 眼ざとい七兵衛はすぐに起きた。
「なんだ、何だ。」
「あの、鼠が……。」
 言ううちに、鼠はお此の衾の上を飛びおりて、蚊帳の外へ素早く逃げ去った。暗いなかではあるが畳を走る足音を聞いて、それが鼠であるらしいことを七兵衛も察した。
「おまえさん。確かに鼠ですよ。」と、お此は気味悪そうにささやいた。
「むむ。そうらしい。」
 それぎりで夫婦は再び枕につくと、やがてお此は再び夫をゆり起して、今度は鼠が自分の顔や頭の上をかけ廻るというのである。それが夢でもないことは、今度も七兵衛の耳に鼠の足音を聞いたのである。もう打捨てては置かれないので、七兵衛は床の上に起き直って枕もとの燧石《ひうちいし》を擦った。有明行燈の火に照らされた蚊帳の中には、鼠らしい物の姿も見いだされなかった。念のために衾や蒲団を振ってみたが、いたずら者はどこにも忍んでいなかった。
「行燈を消さずに置いてください。」
 言い知れない恐怖に襲われたお此は、夜の明けるまで、一睡も出来なかった。七兵衛もそのお相伴《しょうばん》で、おちおち眠られなかった。この頃の夜は短いので、わびしい雨戸の隙間が薄明るくなったかと思うと、ぬき足をして縁側の障子の
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