外へ忍び寄る者があった。お此ははっとして耳を傾けると、外からそっと呼びかけた。
「おかみさん。お眼ざめですか。」
それはお国の声であったので、お此は安心したように答えた。
「あい。起きています。なにか用かえ。」
「はいってもよろしゅうございますか。」
「おはいり。」
許しを受けて、お国は又そっと障子をあけた。かれは寝まきのままで、蚊帳の外へ這い寄った。
「おかみさん。ちょいとおいで下さいませんか。」
「どこへ行くの。」
「お元さんのお部屋へ……。」
お此は又はっとしたが、一種の好奇心もまじって、これも寝まきのままで蚊帳から抜け出した。お元の部屋は土蔵前の四畳半で、北向きに一間の肱かけ窓が付いていた。その窓の戸を洩れる朝のひかりをたよりに、お此は廊下の障子を細目にあけて窺うと、部屋いっぱいに吊られた蚊帳のなかに、お元は東枕に眠っている。その枕もとに一匹の灰色の小鼠が、あたかもその夢を守るようにうずくまっていた。
「御覧になりましたか。」と、お国は小声で言った。
お此はもう返事が出来なかった。かれは半分夢中でお国の手をつかんで、ふるえる足を踏みしめながら自分の八畳の間へ戻って来ると、七兵衛も待ちかねたように声をかけた。
「おい、どうした。」
鼠の話を聞かされて、七兵衛は起きあがった。彼もぬき足をして、お元の寝床を覗きにゆくと、その枕もとに鼠らしい物のすがたは見えなかった。お国も鼠を見たと言い、お此も確かに見たと言うのであるが、自分の眼で見届けない以上、七兵衛はやはり半信半疑であるので、むやみに騒いではならないと女達を戒めて、お国を自分の部屋へさがらせた。
夫婦はいつもの時刻に寝床を出て、なにげない顔をして、朝食の膳にむかったが、お此の顔は青かった。お元もけさは気分が悪いと言って、ろくろくに朝飯を食わなかった。その顔色も母とおなじように青ざめているのが、七兵衛の注意をひいた。
その日も降り通して薄暗い日であった。午《ひる》過ぎにお元は茶の間へしょんぼりとはいって来て、両親の前に両手をついた。
「まことに申訳がございません。どうぞ御勘弁をねがいます。」
だしぬけに謝られて、夫婦も煙《けむ》にまかれた。それでも七兵衛はしずかに訊いた。
「申訳がない……。お前は何か悪いことでもしたのか。」
「恐れ入りました。」
「恐れ入ったとは、どういうわけだ。」
「わたくしは
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