んだ。この時、梅次郎は何を見たか、小声に力をこめてお此を呼んだ。
「叔母さん。あ、あれ……。」
彼が指さす縁側には、一匹の灰色の小鼠が迷うように走り廻っていたが、忽ち庭さきに飛びおりて姿を消した。叔母も甥も息をつめて眺めていた。
叔母が言おうとすること、甥が言おうとすること、それが皆この一匹の鼠によって説明されたようにも思われた。しばらくして、二人はほうっと溜息をついた。お此の顔は青ざめていた。
「お前、誰に聞いたの、そんなことを……。」と、かれは摺り寄って訊いた。
「実は、お国さんに……。」と、梅次郎はどもりながら答えた。
堅く口留めをして置いたにも拘らず、お国は鼠の一件を梅次郎にも洩らしたとみえる。お此はそのおしゃべりを憎むよりも、その報告の嘘でないのに驚かされた。考えようによっては、鼠が縁側に上がるぐらいのことは別に珍しくもない。縁の下から出て来て、縁側へ飛びあがって、再び縁の下へ逃げ込む。それは鼠として普通のことであるかも知れない。それをお元に結びつけて考えるのは間違っているかも知れない。しかもこの場合、お此も梅次郎もかの鼠に何かの子細があるらしく思われてならなかった。
「ほんとうに江戸へ来る途中には、なんにも変ったことはなかったのかねえ。」と、お此はかさねて訊いた。
「まったく変ったことはありませんでした。ただ……。」と梅次郎は躊躇しながら言った。「あの義助と大変に仲がよかったようで……。」
「まあ。」
お此はあきれたように、再び溜息をついた。それを笑うように、どこかで枝蛙のからから[#「からから」に傍点]と鳴く声がきこえた。
三
きょうの鼠の一件がお此の口から夫に訴えられたのは言うまでもない。しかも七兵衛は半信半疑であった。一家の主人で分別盛りの七兵衛は、単にそれだけの出来事で、その怪談を一途《いちず》に信じるわけにいかなかった。
お此はその以来、お元の行動に注意するは勿論、お国にもひそかに言い含めて、絶えず探索の眼をそそがせていたが、店の奉公人や女中たちのあいだには、別に怪しい噂も伝わっていないらしかった。
「義助さんと仲よくしているような様子もありません。」と、お国は言った。
七兵衛にとっては、このほうが大問題であった。梅次郎を婿にと思い設けている矢先に、娘と店の者とが何かの関係を生じては、その始末に困るのは見え透いている
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