人狼
――Were−Wolf――
岡本綺堂
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)藁葺《わらぶき》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)夫婦|兄妹《きょうだい》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)いよ[#「いよ」に傍点]
−−
登場人物
田原弥三郎
弥三郎の妻おいよ
弥三郎の妹お妙
猟師 源五郎
ホルトガルの宣教師 モウロ
モウロの弟子 正吉
村の男 善助
小坊主 昭全
村の娘 おあさ、おつぎ
[#改ページ]
第一幕
一
桃山時代の末期、慶長初年の頃。秋も暮れかかる九月なかばの午後。
九州、肥前国。島原半島に近き山村。田原弥三郎の家。藁葺《わらぶき》屋根の二重家体《にじゅうやたい》にて、正面の上のかたに仏壇、その下に板戸の押入れあり。つづいて奥へ出入りの古びたる障子。下のかたは折りまわして古びたる壁、低き竹窓。前は竹縁にて、切株の踏み段あり。下のかたの好《よ》きところに炉を切りて土瓶をかけ、傍らに粗朶籠《そだかご》などあり。庭には秋草など咲きて、上のかたには大竹薮あり。下のかたには低き丸太の柱を立て、型ばかりの木戸あり。木戸の外には石の井戸ありて、やや赤らみたる柿の大樹あり。うしろは田畑を隔てて高き山々、恰もこの村を圧するが如くに近くみゆ。
(弥三郎の妹お妙、十七八歳。村の娘おあさ、おつぎと共に針仕事の稽古をしている。百姓善助、五十余歳、鍬を持ちて縁に腰をかけている。砧《きぬた》の音きこゆ。)
善助 みんな好く精が出るな。なんと云っても、女は針仕事が大事だ。こう遣って精を出していれば、どこへでも立派にお嫁さんに行かれるぞ。はははははは。
(弥三郎の女房おいよ、二十七八歳、色白くして品よき女、奥の障子をあけて出づ。)
おいよ 善助さん。あさ夕はめっきり冷えて来ましたな。
善助 いくら九州はあたたかいと云っても、九月の声を聞くと秋風が身にしみて来る。どこかで砧を打つ声が聞えたり、この娘たちが冬物を縫っているのを見たりすると、冬がもう眼の前へ押寄せて来たように思われますよ。
おいよ まったく冬はもう眼の前……。(娘等をみかえる。)それでも皆んなが精を出すので、親御さん達は仕合せです。
善助 それもお前が気をつけて、よく仕込んで呉れるからのことで、近所でも皆んな喜んでいます。時に旦那どのは、まだ山から戻られませんかな。
おいよ いつもの通り、朝から出て行きましたが、此頃はちっとも猟がないので、それからそれへと獲物をあさって、あまり深入りをせねばよいがと案じています。
善助 その獲物がないというのも、例の狼めがここらを荒らすせいではないかな。
おあさ ほんに此頃はここらへ悪い狼が出るので、日が暮れると滅多に外へは出られません。
おつぎ あしかけ三月のあいだに、この村中で七人も咬まれたとはまったく怖ろしいことですな。
お妙 兄さんも早くその狼を退治したいと云っていますが、なかなか姿をみせないのでどうすることも出来ないそうです。
善助 今までここらにそんな怖ろしい狼が出るという話は、ついぞ聞いたこともなかったが、山伝いに何処からか悪い狼が入り込んで来たと見える。初めは新仏《しんぼとけ》の墓をあらして、死骸をほり出して喰っていたが、それがだんだんに増長して、此頃は往来の人間にまで飛びかかるようになって来たので、村中は大騒ぎで、このあいだから二度も狼狩りを遣ってみたが、どうしても見付からない。もう立去ったのかと思って安心していると、また出て来る。現に一昨日《おととい》の晩も長福寺の小坊主が檀家から帰る途中で飛び付かれた。
おあさ それでも運よく無事に逃げ負《おう》せたそうですな。
善助 むむ。あの小僧はふだんから悪戯者《いたずらもの》だけに、持っている松明《たいまつ》を叩きつけて、一生懸命に逃げ出してあぶない所を助かったそうだ。
おつぎ 小僧さんの話では、その狼はなんだか人間のような姿をしていたと云うではありませんか。
善助 (笑う。)はは、子供のいうことが当てになるものか。暗いなかから不意に飛び出して来たのと、こっちが慌てているのとで、そんな風にも見えたのだろう。狼が人間のような姿をしていては大変だ。
おあさ 姿ばかりでなく、顔までが真白な女のように見えたとか云いますが……。
善助 狼の顔が女にみえた……。(又笑う。)それはいよいよ大変だ。勿論、狼にも雌雄《めすおす》はあるが、いくら雌でも女のような顔はしていないだろう。こう云うときには色々の噂が立つものだ。はははははは。
(おいよは終始無言で聴いている。)
お妙 いつかはあの山に天狗が出ると云って、大騒ぎをしたことがありましたな。
おつぎ それから山男が出て来て、子どもを攫《さら》って行ったこともありました。
善助 むむ。天狗の出たこともある、山男の出たこともある。なにしろ斯《こ》ういう山国《やまぐに》には不思議なことが絶えないので困る。いや、飛んだ長話でお邪魔をしました。(立上る。)
おいよ もうお帰りですか。
善助 狼の出ないうちに早く帰りましょう。
おあさ (おつぎと顔をみあわせて。)もう狼が出ますかえ。
善助 なに、狼の出るのは大抵夜更けだというから、日の暮れないうちは大丈夫だ、大丈夫だ。(おいよに。)では、御免なさい。
(善助は会釈して下のかたへ去る。)
おあさ わたし達もそろそろ帰ろうではありませんか。
おつぎ もう片付けて帰りましょう。
おいよ ふだんと違って此頃は、帰りが遅いと内でも案じるであろうから、日の暮れぬうちに早くお帰りなさい。
二人 あい、あい。
(おあさとおつぎは仕立物を早々に片付ける。)
二人 では、あした又お稽古にまいります。(おいよとお妙に会釈して縁を降りる。)
お妙 気をつけておいでなさい。
おいよ 狼の噂の絶えぬあいだは、決して夜歩きをなさるなよ。
二人 あい、あい。
(おあさとおつぎは足早に下のかたへ去る。お妙は後を見送る。)
お妙 此頃は寄れば障れば狼の噂ばかりで、ほんとうに忌《いや》なことですな。兄さんも狼のありかを探して、山の奥まで踏み込んだのではありますまいか。
おいよ そんなことかも知れません。今こそ狩人になっているが、おれも昔は武家の禄《ろく》を食《は》んだ者、今度の狼はどうでも我手で仕留めねばならぬと、日頃から云い暮らしていられたから、きょうも山奥へ踏み込んで……。(向うを見る。)当途《あてど》も無しに峰や谷間《たにあい》を駈けまわって、木の根や岩角にでも蹉《つまず》くか、谷川へでも滑り落ちるか、飛んだ怪我でもしなさらねばよいが……。ここへ来てから足かけ八年、毎日の山かせぎには馴れていても、やっぱり戻るまでは案じられます。
(お妙は仕立物を片付ける。時の鐘。木の葉さびしく散る。)
おいよ (空をみる。)秋の日は短い。きょうももう暮れるか。
(鐘の声つづけて聞《きこ》ゆ。)
お妙 (おなじく空を見る。)日が暮れると、なんだか怖ろしいようです。
おいよ お前は日が暮れるのがそんなに怖ろしく思われますか。
お妙 悪い狼が出るというので……。
おいよ 悪い狼が出るというので……。(ため息をついて。)日が暮れると、わたしもまったく怖ろしい。いや、夜ばかりではない。昼間でも狼の噂を聞くと、わたしは身の毛が悚立《よだ》つような……。(身をふるわせる。)わたしは狼に取憑《とりつ》かれたのかも知れない。
お妙 (ぎょっとして。)え。
おいよ (気をかえて、無理に笑う。)ほほ、おまえは相変らず気が弱い。こんなことを云っているうちに、あの人ももう戻られるであろう。どれ、今のうちに炉の火を焚きつけて置きましょうか。おまえは夕御飯の仕度をして下さい。
お妙 あい、あい。
(薄く風の音。おいよは炉に粗朶《そだ》をくべる。お妙は仕立物を押入れに片付けて、奥に入る。下のかたより長福寺の小坊主昭全、十四五歳。足音をぬすんで忍び出で、木戸の外より内を窺いいる。おいよはやがて心づきて見かえる。)
おいよ そこにいるのは……。
(昭全は返答に躊躇していると、おいよは立って縁さきに出づ。)
おいよ おまえは長福寺のお小僧さんではないか。何でそこらに立っているのです。
昭全 (急に思案して。)実はこの……。(柿の木を指さす。)柿の実を取りに来ました。どうぞ堪忍してください。
おいよ 柿の実ならば、おまえのお寺にも沢山に生《な》っているではないか。(疑うようにじっと見て。)ほんとうに柿の実をぬすみに来たのですか。
昭全 どうも済まぬことをしました。堪忍して下さい。
(云いすてて、昭全は逃るように下のかたへ立去る。おいよは猶《なお》もじっとその跡を見送る。風の音。向うより田原弥三郎、三十四五歳、以前は武士なれど、今は浪人して猟師となっている姿、大小を横えて火縄銃をかつぎ、小鳥二三羽をさげて出づ。)
おいよ おお、戻られましたか。きょうはどうでござりました。
弥三郎 いや、相変らずの不首尾で、山又山を一日かけ廻っても、狼の足あとさえも見付からない。(持ったる小鳥を指さして苦笑いする。)から手で戻るのも忌々しいので、帰りがけにこんな物を二三羽……。人に見られても恥かしいくらいだ。
おいよ それでも何かの獲物があれば結構でござります。幸いに天気は好うござりましたが、山風はなかなか冷えたでござりましょう。早く炉のそばへおいでなされませ。
(砧の音。おいよは桶を持ちて井戸ばたへ水を汲みに出る。弥三郎は縁に腰をかけて、藁の脛巾《はばき》を解き、草鞋《わらじ》をぬぐ。奥よりお妙出づ。)
お妙 お帰りなされませ。
(お妙は先《ま》ず草鞋を片付け、更においよが汲んで来りし桶を受取りて、弥三郎の足を洗わせる。)
弥三郎 稽古の娘たちは帰ったか。
お妙 先刻《さっき》もう帰りました。
弥三郎 あの娘たちも狼の噂に怯えていると見えるな。それも無理のないことだ。
(この話のうちに、弥三郎は足を洗い終りて、炉のまえに坐る。炉の火は次第に燃えあがる。お妙は井戸ばたへ水を捨てに行き、おいよは茶碗に湯をついで弥三郎にすすめる。)
おいよ すぐに御飯をあがりますか。
弥三郎 いや、待ってくれ。おれは又すぐに出なければならないのだ。
おいよ どこへお出でなさる……。
弥三郎 今そこで村の八蔵に出逢ったら、庄屋殿の宅に寄合があるから、直ぐに来てくれというのだ。
おいよ では又、狼狩の相談でござりますか。
弥三郎 (うなずく。)むむ、その相談だ。このあいだから二度までも狼狩を催したが、遂にその姿を見付けることが出来ない。と云って、このままに捨てて置いては、村方一同の難儀になるので、もう一度何とか相談して、今度こそはどうでもその狼めを退治しようと云うのだ。この村に狩人渡世をしている者は、おれのほかに三人あるが、そのなかでもおれは浪人、以前は武士であるというので、こういう時には大将分に押立てられて、何かの采配を振らねばならない。まったく一匹の獣《けもの》のために、諸人が難儀するというのは残念なことだ。なんとか工夫して退治したいと思うのだが……。
おいよ どなたも色々の御心配、お察し申します。
弥三郎 ところで、ここに又ひとつの評議がある。出没自在の狼を人間の力で退治することは覚束ない。いっそ神の力を借りようというのだ。
おいよ 神の力を借りるとは……。どうするのでござります。
弥三郎 おまえも知っている通り、ホルトガルの伴天連《バテレン》が長崎から天草へ渡り、天草から又ここらへ渡って来て、このあいだから切支丹の教えを弘めている。その教えがよいか悪いか、おれにはまだ本当に呑み込めないが、ここらでも信仰している者が随分あるらしい。その信者たちの発議で、切支丹の伴天連をたのみ、狼退治の祈祷をして貰おうというのだ。
おいよ 切支丹の教えの尊いことも、その伴天連のありがたいことも、かねて聴いていましたが……。(考えて。)おまえもそれに同意なさるのでござりますか。
弥三郎 さあ、同意というでもないが、押切って反対もしな
次へ
全5ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング