い積りだ。神の力を頼むものは頼むがよい。人間の力をたのむ者は頼むがよい。どちらにしても、その狼を退治して、諸人の難儀を救うことが出来れば好いのだ。併《しか》しおれは武士の果で、今も狩人を商売にしているのだから、弓や鉄砲で働くのほかはあるまいよ。なにしろ、どんな相談があるか、これから直ぐに行ってみよう。(お妙に。)これ、履物を出してくれ。
お妙 はい。
(お妙は奥に入る。おいよは押入れをあけて袖無し羽織を取出し、弥三郎に着せる。お妙は藁草履を持ち来りて踏み段に直せば、弥三郎は草履を穿いて出る。風の音。)
弥三郎 山ふところは暮れるが早い。もう薄暗くなって来た。おれには構わずに、みんな夕飯を食ってしまえ。
(弥三郎は下のかたへ去る。おいよは門口まで送って出て、あとを見送る。風の音。舞台は次第に薄暗くなる。おいよはやがて引返して内に入る。)
おいよ ほんにもう薄暗くなった。あかりをつけて、早く裏口の戸締りをしましょう。
お妙 まったく此頃は戸締りが大切です。
(おいよにお妙も付添いて奥に入る。風の音。下のかたより以前の昭全が源五郎を案内して出づ。源五郎は二十二三歳の猟師にて、火縄銃を持つ。昭全は家内を指して何か囁けば、源五郎は半信半疑の体《てい》にて考えている。)
源五郎 (小声で。)おまえは確に見たか。
(昭全うなずく。)
源五郎 (また疑うように。)併しこれはよく考えてみなければならない。して、和尚様は何と云われた。
昭全 (小声で。)和尚様は嘘だと云うのだ。
源五郎 むむ。誰でも嘘だと云うだろう。おれにしても本当とは思われないからな。
(源五郎は内をのぞきながら又考えている時、奥よりお妙は行燈《あんどん》をとぼして出づ。)
お妙 誰かそこにいるような。(表をすかし見る。)
源五郎 おお、お妙さん……。(小声で。)おれだ、おれだ。ちょいと来てくれ。
(お妙は源五郎を見つけて、奥をみかえりながら縁を降りる。)
お妙 なにか用ですかえ。
源五郎 むむ。ここでは話が出来ない。まあ、そこまで来てくれ。
(源五郎と昭全は先に立ちてゆく。お妙は再び奥をみかえりながら、そっと出て行く。風の音。奥よりおいよ出づ。)
おいよ 源五郎がよび出しに来て、お妙さんは出て行ったらしい。丁度幸い、今のうちに……。(決心して。)そうだ、今のうちに……。
(おいよは身繕いする。風の音。行燈の火消える。)
おいよ (暗い中で。)おお、あかりが消えた。
[#地から1字上げ]――暗転――
二
おなじ村の川端。よきところに柳の大樹二三本ありて、岸には芦の花が夕闇に白く咲きみだれている。正面は川を隔てて山々みゆ。
(水の音。下のかたより源五郎とお妙、あとより昭全も出づ。)
源五郎 今もいう通りのわけで、一昨日の晩、昭全さんに飛び付いたのは、確におまえの姉さんだと云うのだ。
お妙 内の姉さんが狼のようになって、往来の人に飛び付くなぞと……。そんな事のあろう筈がないので……。(考える。)わたしにはどうしても本当とは思われませんよ。
源五郎 あんまり途方もないことで、おれにも本当とは思われないが……。それでもこの小僧さんは確に本当だというのだ。
昭全 (進みよる。)本当だ、本当だ。たしかに本当だ。わたしは松明の火で確に見たのだ。狼は火を恐れると云うことを聞いているので、わたしは松明をたたき付けて、一生懸命に逃げたのだ。
お妙 その狼の顔が内の姉さんに見えましたか。
昭全 わたしが何で嘘をつくものか。顔も姿もおまえの家《うち》の姉さんに相違なかったのだ。
お妙 まあ。
(お妙はやはり不思議そうに考えている。)
源五郎 (おなじく惑うように。)そうは云っても、自分の眼で確な証拠を見届けないうちは、おれも迂闊《うかつ》に手を出すことは出来ない。万一それが間違いであったら、取返しの付かないことになる。なにしろ弥三郎どのと相談の上でなければならないが、亭主にむかってお前の女房が狼らしいとは、なんぼ何でも云い出しにくい。お前からそっと兄さんに話してみては呉れまいかな。
昭全 まだ疑がっているのか。わたしはこの二つの眼で見たというのに……。
源五郎 お前ひとりが見たというのでは、まだ本当の証拠にはならないのだ。(お妙に。)おまえにも何か思い当るようなことは無いかな。
お妙 さあ。(又かんがえる。)そう云えば、このあいだの朝、姉さんが表の井戸端で……。血の付いたような着物の袖を……。
源五郎 血の付いたような着物の袖を……。井戸ばたで洗っていたのか。
昭全 それ、それが証拠だ。おまえの姉さんは夜なかに家《うち》を抜け出して、往来の人を喰い殺しに行くのだ。それ見ろ。狼だ、狼だ。
源五郎 まあ、まあ、静《しずか》にしろ。狐や狸が人間に化けるとは、昔からもよく云うことだが、狼が人間に化けて人の女房になり済ましているとは珍しいことだ。兄さんに聞いてみたら、又何か思い当ることがないとも云えないから、是非おまえから話して貰いたい。それがいよいよ狼と決まったら、いくら自分の女房でも兄さんも打っちゃっては置くまい。おれも加勢して……。(鉄砲をみせる。)これで一撃ちにして仕舞わなければならないのだ。
お妙 (身をふるわせる。)ああ、怖ろしい。なんと云うことだろう。わたしは夢のように思われてならない。
源五郎 まったく夢のようだが、今のおまえの話を聞くと、だんだんに疑念が募るばかりだ。
昭全 お前がいつまでもぐずぐず[#「ぐずぐず」に傍点]していると、大事のお妙さんまでも狼に喰われてしまうぞ。
お妙 (源五郎と顔を見合せる。)あれ、あんなことを……。
源五郎 この小僧め。余計なおしゃべりをすると、承知しないぞ。(鉄砲をふりあげる。)
お妙 (遮る。)まあ、子供を相手にしないで……。
源五郎 こんな奴が方々へ行って触れ散らすので、おれが皆んなに戯《からか》われるのだ。貴様こそ狼に喰われてしまえ。
昭全 (頭をおさえて。)やれ、怖ろしい。南無あみ陀仏、なむ阿弥陀仏。
源五郎 (俄《にわか》に上のかたを見る。)や、あっちから来たのはお前さんの兄さんらしいぞ。
お妙 ほんに兄さん……。
源五郎 おれ達はまあ隠れるとしよう。(昭全に。)おまえも早く来い、来い。
(源五郎は昭全を促して、下のかたの芦のなかに隠れる。水の音。薄月の影。上のかたより弥三郎出づ。お妙はどうしようかと躊躇しているうちに、弥三郎は妹をみつける。)
弥三郎 おお、お妙か。今頃どこへ行く。おれを迎いに来たのか。
お妙 いえ、あの……。村はずれまで買い物に行くのです。
弥三郎 まだ日暮れだから狼も出まいが、気をつけて行けよ。
お妙 はい。(行きかけて立戻る。)あの、兄さん……。
弥三郎 なんだ。
お妙 あの……。(云いかけて躊躇する。)
弥三郎 なにか用か。
お妙 (云い出しかねて。)あの……。おまえも気をつけてお出でなさい。
弥三郎 はは、おれは大丈夫だ。(刀の柄を叩く。)何が出て来ても、これで真二つ……。おれはその狼の出るのを待っているのだ。村ではいよいよ切支丹の伴天連をたのんで、有難い祈りをして貰うことに決まったが、さっきも云う通り、祈祷は祈祷、おれは俺だ。おれは鉄砲かこの刀で、見ごとに狼を退治してみせるのだ。
お妙 (探るように。)狼のありかは判りましたか。
弥三郎 わかれば直ぐに退治に行くが……。そのありかが知れないので困るのだ。きょうは一度も源五郎に逢わなかったが、あいつも屹《きっ》と狼のありかを探しているに相違ない。おれも今夜は鉄砲を持ち出して、夜通し村中を見廻ってあるく積りだ。みんなが無暗に切支丹を有難がっているのを聞くと、おれは何だか腹が立って来た。どうしてもあの狼をおれたちの手で仕留めて、切支丹の坊主が偉いか、おれ達が偉いか、この腕をみせて遣らなければならないのだ。
お妙 兄さんの気性としては無理もないことですが、せいては事を仕損じます。よくその正体を見とどけた上で……。
弥三郎 なに、正体を見とどけろと……。
お妙 若《も》しも間違えて、人でも殺すようなことがあっては大変ですから……。
弥三郎 (笑う。)馬鹿をいえ。いくら慌てても、人間と獣とを間違える程のおれでは無いぞ。さあ、暗くならないうちに、早く行って来い。
(弥三郎は向うへ行きかかる。お妙は又よび返そうとして躊躇しているうちに、弥三郎は去る。芦のあいだより源五郎出づ。)
源五郎 兄さんは見つけ次第に、狼を退治する気だな。
お妙 それだから迂闊なことは云われず……。ああ、どうしたら好かろうか。
源五郎 今も聴いていれば、村では切支丹の伴天連をたのんで、祈祷をして貰うことになったそうだが、異国の坊主なぞに何が出来るものか。おれは不断から切支丹は大嫌いだ。兄さんのいう通り、こうなったら意地づくでも、おれたちの手で退治しなければならない。それに付けてもさっきの一件を、よく兄さんに話してくれ。
お妙 どうしても話さなければなるまいか。
源五郎 (じれる。)お前はおれがこれ程に云うのを肯いてくれないのか。
お妙 (慌てて。)いえ、そう云うわけではないけれど……。
源五郎 そんなら早く話してくれ。いいか。
お妙 (仕方無しに。)あい。
(芦のあいだより昭全あわただしく飛んで出づ。)
昭全 それ、何か来た……。何か来た……。(源五郎のうしろへ隠れる。)
源五郎 え。何か来た……。
(源五郎はお妙を囲いながら、下のかたを屹《きっ》と透し見る。)
源五郎 なんにも居ないではないか。こいつめ、おれ達を嚇《おど》かしたな。
昭全 いいえ、どこかで芦の葉のがさがさ[#「がさがさ」に傍点]云う音がきこえた。
源五郎 芦の葉のがさ[#「がさ」に傍点]付くのは珍らしくない。大かた風の音だろう。はは、臆病な奴だ。なにしろ、いつまでもここにいても仕様がない。さあ、お妙さんはおれが途中まで送って遣ろう。
昭全 わたしを置去りにして、お妙さんだけを送って遣るのか。おまえも随分親切だな。
源五郎 ええ、やかましい。お前なぞは勝手に帰れ、帰れ。
昭全 おれが手柄をさせて遣ろうというのに、仇《かたき》にすることがあるものか。貴様こそ狼に喰われてしまえ。
源五郎 なんだ。
昭全 いや、これはおまえの口真似だ。
(昭全は笑いながら、下のかたへ足早に立去る。)
お妙 まったくあんな小僧が色々なことを云い触らすので、わたし達のことも大抵世間へ知れてしまったような。
源五郎 狼の一件が片付いたら、いっそ兄さんに打明けて、表向きの夫婦にして貰おうではないか。
お妙 そうなれば嬉しいけれど……。
源五郎 いつまでも世間に気兼ねをしているのは詰まらないことだ。
(二人は睦まじく語らいながら、向うへ去る。水の音。下のかたの芦をかきわけて、おいよ忍び出で、二人のあとを見送る。)
おいよ まあ、見付けられないで好かった。こうなったらもう一刻も猶予は出来ない。
(おいよはそこらの小石を拾いて袂に入れる。そのあいだに、下のかたよりホルトガルの宣教師モウロ、四十余歳、旧教の僧服をつけ、頚に十字架かけて出で来り、柳の木かげに身をよせて窺いいると、おいよはやがて合掌して川へ飛び込もうとする。モウロは駆け寄って抱きとめる。)
モウロ お待ちなさい。あなた、どうしますか。
おいよ (身を藻掻《もが》く。)放して下さい、放してください。
モウロ あなたは身を投げますか。いけません、いけません。
おいよ いいえ、放して……。殺して……。
(おいよは振放して飛び込もうとするを、モウロは又ひき戻せば、力余っておいよは地に倒れる。)
モウロ 殺すことはなりません。神さまのお指図です。
(モウロは両手を拡げて、おいよを遮る。おいよは相手が異国人なることを覚って、倒れながらにその顔をみあげる。薄月の影。水の音。)
[#地から1字上げ]――幕――
[#改ページ]
第二幕
一
第一幕とおなじ宵。
村はずれの一つ家。久しく空家となりいたれば、家内はすべて荒廃したりと知るべく、家内の大部分は土間にて、正面
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