に古びたる板戸の出入口あり。左右の壁は頽《くずお》れ、下のかたの竹窓もくずれて、窓には紅葉しかかりたる蔦がからみて垂れたり。土間には炉を切りて、上のかたには破れ障子を閉めたる一間あり。正面の壁には聖母マリアの額をかけ、その前の小さき棚には金属製のマリアの立像を祭りてあり。よき所に手作りとおぼしき粗木《あらぎ》の床几のごとき腰かけ二脚と、おなじく方形のテーブル様の物あり。下のかたの壁には小さき棚、それに多少の食器のたぐいを列べ、棚の下に水を入れたる手桶、束ねたる枯枝などあり。家の外には立木ありて、あき草高くおい茂り、うしろには山々みゆ。薄月の夜。
(正吉、十五六歳の少年、テーブルの上に蝋燭をとぼし、聖書を読んでいる。外には虫の声きこゆ。下のかたより秋草をかきわけて、宣教師モウロはおいよの手をひいて出づ。)
モウロ (おいよに。)わたくしの家です。お這入《はい》りなさい。
(モウロは入口の戸を叩く。正吉はすぐに床几を立って戸をあければ、モウロは進み入る。おいよもおずおずと付いて入る。)
モウロ (正吉に。)お客あります。火をお焚きなさい。
正吉 はい。
(正吉は無言でおいよに会釈し、枯枝を炉にくべる。おいよは立っている。)
モウロ (床几を指さして。)おかけなさい。ここの家《うち》にはあの子供とわたくしと二人ぎりで、ほかには誰も居りません。あなた、遠慮することはありません。
(おいよは丁寧に会釈して、テーブルの前に腰をかける。モウロも向き合いて腰をかける。)
モウロ (笑ましげに。)わたくしはあなたを識っています。このあいだ庄屋さんの家《うち》で、わたくしが説教をしました。その時に、あなたは庭の大きい木のかげに立って、遠くから聴いていました。違いますか。
おいよ はい。おっしゃる通りでござります。
モウロ わたくしの説教、わかりましたか。
(おいよは無言で俯向《うつむ》いている。)
モウロ (いよいよ打解けて。)そこで、あなたは今夜なぜ自分から死のうとしましたか。
(おいよは矢はり黙っている。)
モウロ そのわけを話してください。(正吉を指さす。)あの子供は長崎の百姓の息子で、父もない、母もない……孤児《みなしご》ですから、わたくしが一緒に連れてあるいて育てているのです。つまりはわたくしの子供も同じことですから、決して遠慮はありません。なんでも正直に話してください。
(おいよは矢はり俯向いている。正吉は火を焚きつけて、湯を沸かす支度にかかる。)
モウロ (重ねて。)あなたは運の悪い人ですか。それとも罪のある人ですか。(おいよの顔をじっと見て。)あなたは何かの罪を犯しましたか。先日も申した通り、罪のあるものは……。(聖母を指さす。)神様の前で懺悔をしなければなりません。
おいよ はい。
モウロ さあ。お話しなさい。(立って、頚にかけたる十字架をわが額にかざす。)神様は聴いておいでになります。わたくしも聴きます。
おいよ は、はい。
(おいよは床几を離れて土間にひざまずき、一種の恐怖に打たれるように身を顫《ふる》わせる。)
モウロ これからあなたがどんな話をなされても、わたくしは決して他人には洩らしません。それは神様の前で誓います。どんな秘密でも、どんな怖ろしいことでも、包み隠さずにお話しなさい。あなたは何かの罪を犯した覚えがありますか。
おいよ はい。(又もや身をふるわせる。)わたくしは……口へ出すのも怖ろしいような大罪を犯しているのでござります。
モウロ (しずかに。)どんなことですか。
おいよ わたくしは人を殺しました。
モウロ 人を殺しましたか。
おいよ (いよいよ声を顫わせる。)はい。人を殺しました。人の生血を啜《すす》りました……。人の肉を喰いました……。わたくしは人間ではござりません。獣でござります。狼でござります。(泣く。)
モウロ あなたは人を殺して……。狼のように、その血を啜りましたか。その肉を喰いましたか。
おいよ はい。一人《ひとり》ならず、七人までも喰い殺しました。わたくしには獣のたましいが乗憑《のりうつ》っているのでござります。こうして女の姿はして居りますが、わたくしの心は怖ろしい狼になって仕舞ったのでござります。(堪えざるように泣き頽《くず》れる。)
(モウロは進み寄って、おいよを抱き起す。正吉も立寄れば、モウロは近寄るなと眼で知らせる。)
モウロ これは大事の懺悔です。こころを落付けてよくお話しなさい。あなたはどうして狼のような心になりましたか。
おいよ それには先ずわたくしの身の上からお話し申さなければなりません。わたくしの夫は田原弥三郎と申しまして、以前は秋月家に仕えた侍でござりましたが、八年以前に仔細あって浪人いたしまして、お妙という妹と妻のわたくしと……。まだ申上げませんでしたが、わたくしの名はいよ[#「いよ」に傍点]と申します。
(モウロはうなずきながら、おいよを抱き起して元の床几にかけさせ、自分も元の席に戻る。)
モウロ わかりました。あなたの名はおいよさん。そのあなたと、あなたの夫と、その妹と……。三人の家族ですな。
おいよ はい。夫は浪人の身となりましたので、その後は夫婦|兄妹《きょうだい》三人がここに引籠りまして、夫は狩人、わたくしは近所の娘子供に手習や針仕事などを教えまして、何事もなく月日を送って居りますうちに……。まあ、なんという因果でござりましょう。わたくしに不図おそろしい魔がさしまして……。(云いかけて、又泣き入る。)
モウロ まあ、お待ちなさい。正吉さん。水を洩って来てください。
(正吉は棚より金属製のコップを取り、それに桶の水を汲み入れて持ち来れば、モウロはポケットより紙につつみたる粉薬をとり出す。)
モウロ あなた、弱ってはいけません。ここによい薬があります。さあ、これを飲んで、すこし休息して、それからゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]お話しなさい。
(モウロはおいよを勦りて、薬を飲ませる。)
おいよ ありがとうござります。いえ、もう弱りは致しません、泣きは致しません。わたくしも一生懸命でござります。(涙を拭いて。)もし、そのあとをお聴きください。忘れもしない此の七月二日の晩でござりました。わたくしが夜なかにふと[#「ふと」に傍点]眼をさましますと、表でわたくしの名を呼ぶような声がきこえます。不思議に思って窓をあけて見ますと、暗い表に人らしいものの忍んでいる様子もござりません。(その当時のありさまを思い出したように、眼を輝かしてあたりを見廻す。)よく聞くと、それは人の声ではなく、狼……狼の声でござりました。
モウロ 狼……。あなたはその声を聞いたばかりで、その姿を見ませんでしたか。
おいよ 姿はみえません、暗いなかで唯きこえるのは声ばかり……。それを聞いているうちに……。その時わたくしに魔がさしたのか、獣のたましいが乗憑《のりうつ》ったのか、自分でも夢のように雨戸をあけて、ふらふらと表へ出ました。(立ちあがる。)どこかで狼の声がつづけて聞えます。それがわたくしを呼ぶように聞えるので……。
(おいよはふらふらと表へ出て行こうとするを、モウロと正吉は遮りながら押戻して腰をかけさせる。)
モウロ まあ、落付かなければいけません。それからあなたは何《ど》うしました。
おいよ もう其時には……。わたくしの心は狼のようになっていたのでござります。あても無しに往来へ迷って出て、近所の墓場へまいりまして……。きのう埋めたばかりの新仏《しんぼとけ》の……。その新仏の墓をほりかえして……。もうそのあとは申上げられません。
(おいよはテーブルの上に泣き伏す。モウロと正吉は黙祷す。暫時の間。)
おいよ (息をついて。)何事も半分は夢のようで、自分でもはっきり[#「はっきり」に傍点]と覚えてはいないのでござりますが……。兎も角もそれから家《うち》へ帰りまして、誰にも覚られずに済みました。
モウロ それから後にも、その狼の声が聞えるのですか。
おいよ 毎晩きこえます。その後は夜が更けると、必ずわたくしを呼ぶように聞えます。呼び出されてはならない、誘い出されてはならないと、一生懸命に耳を塞いだり、眼を瞑《と》じたり、口のうちで観音さまや阿弥陀仏様を念じたりして、色々に防いでいたのでござりますが、三日目に一度、五日目に一度は、どうしても防ぎ切れなくなりまして、糸に引かれるようにうかうか[#「うかうか」に傍点]と表へ出て、相変らず墓荒しを致して居りますうちに……。(次第に亢奮して。)盂蘭盆《うらぼん》の[#「盂蘭盆《うらぼん》の」は底本では「孟蘭盆《うらぼん》の」]月の明るい晩、三人づれの若い女が笑いながら来るのに出逢いました。それを見ると、わたくしは……。いきなりに飛びかかって……。
(おいよはいよいよ亢奮して又立ちあがり、傍に立っている正吉の腕をつかんで引寄せようとするを、モウロは立寄って引き分ける。)
モウロ その三人は皆あなたに殺されましたか。
おいよ いえ、わたくしが一人《ひとり》に飛びかかると、ほかの二人《ふたり》はおどろいて逃げてしまいました。あとで聞きますと、その三人は盆踊の戻り道でわたくしに殺されたのはおぎんと云う今年《ことし》十六の娘……。しかも毎日わたくしのところへ針仕事の稽古に来る娘でござりました。情ないと云いましょうか、浅ましいと申しましょうか。それが因果の始まりで……。(又泣く。)
モウロ (嘆息して。)その狼の噂はわたくしも聞いていましたが……。では、二三日前の晩に、寺の小僧に飛びかかったと云うのも、矢張りあなたでしたか。
おいよ 唯今も申す通り、何事も自分がするのか、人がさせるのか、半分は夢のようで、確にはおぼえて居りませんが、あの小僧さんには松明《たいまつ》を投げ付けられたようでござりました。(涙をぬぐう。)伴天連様。今のわたくしは人間であるのか、獣になったのか、我身でわが身が判りません。兎もかくも昼間は人なみの人間で、道理も人情も一通りはわきまえて居りながら、夜になると忽ち狼のこころに変って、人の肉を喰い、人の血を啜る……。こんな浅ましい因果な人間は、とても此世に生きてはいられないのでござります。どう考えても、死ぬより外はござりません。
モウロ (悼ましげに。)あなたの苦しみは察しられます。死のうとするのも無理はありません。昼は人間で、夜は狼になる――そういう不思議な人間は欧羅巴《ヨーロッパ》にもあります。それは日本の狐つきと同じように、狼が人間に憑くのだと云い伝えられて居りますが、所詮は悪魔が人間に乗り移って、さまざまの禍《わざわい》をさせるに相違ないのです。あなたにもその悪魔が憑いたのです。(形をあらためて。)しかし決して恐れることはありません、悲しむこともありません。悪魔に憑かれた人間が救われた例《ためし》は沢山あります。あなたも神さまにお祈りなさい。一心に神様にお縋りなさい。われわれの神様はかならず悪魔を遠ざけて、あなたを救って下さります。
おいよ あの、わたくしのような者でも……。(モウロの前にひざまづく。)ほんとうに救われましょうか。
モウロ 救われます。
おいよ (モウロの裾に縋る。)きっと救われましょうか。
モウロ (断乎として。)救われます。我々の神様をお信じなさい。あなたは必ず救われます。
おいよ ありがとうござります。(思わず手をあわせる。)
モウロ そこで、あなたの夫――田原さんと云いましたな。その人も妹さんもあなたの秘密を少しも知らないのですか。
おいよ 知りません。誰も存じないようでござります。いっそ夫に打明けて、なんとか相談を致そうかと存じましたが……。いかに夫婦のあいだでも、こればかりは思い切って打明けることも出来ず、わたくし一人で苦しんでいるのでござります。
モウロ 御もっともです。わたくしも決して他人には洩らしませんから、御安心なさい。(考える。)あなたはここに長くいることが出来ますか。
おいよ (これも考えて。)さあ、今晩は断りなしに出ましたので……。
モウロ (うなずく。)そうです、そうです。あなたの帰りがおくれる
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