きは致しません。わたくしも一生懸命でござります。(涙を拭いて。)もし、そのあとをお聴きください。忘れもしない此の七月二日の晩でござりました。わたくしが夜なかにふと[#「ふと」に傍点]眼をさましますと、表でわたくしの名を呼ぶような声がきこえます。不思議に思って窓をあけて見ますと、暗い表に人らしいものの忍んでいる様子もござりません。(その当時のありさまを思い出したように、眼を輝かしてあたりを見廻す。)よく聞くと、それは人の声ではなく、狼……狼の声でござりました。
モウロ 狼……。あなたはその声を聞いたばかりで、その姿を見ませんでしたか。
おいよ 姿はみえません、暗いなかで唯きこえるのは声ばかり……。それを聞いているうちに……。その時わたくしに魔がさしたのか、獣のたましいが乗憑《のりうつ》ったのか、自分でも夢のように雨戸をあけて、ふらふらと表へ出ました。(立ちあがる。)どこかで狼の声がつづけて聞えます。それがわたくしを呼ぶように聞えるので……。
(おいよはふらふらと表へ出て行こうとするを、モウロと正吉は遮りながら押戻して腰をかけさせる。)
モウロ まあ、落付かなければいけません。それからあな
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