《ど》うです。
お妙 はい。
おいよ 今もいう通り、兄さんはどうで暁方までは帰られまいから、おまえは構わずに、もう先へお寝《やす》みなさい。
お妙 はい。(躊躇している。)
おいよ (笑う。)それとも待っている人でもありますか。
お妙 (あわてて。)いえ、そんなわけではありませんが……。では、もうそろそろ片付けましょう。
(お妙は庭に降りて、砧を片付けにかかる。)
おいよ いえ、そうして置いてください。お前のような若い人とは違って、わたしはまだ寝るには早い。代って少し打ちましょう。(庭に降りて空を仰ぐ。虫の声。)おお、月がまた明るくなった。
お妙 (おなじく空をみる。)宵には時々曇りましたが、よい月になりました。
おいよ よその砧の音《おと》ももう止んだような。
お妙 この頃は狼の噂で、どこでも早く寝てしまうようです。
おいよ (耳を傾ける。)砧の音も止んで、唯きこえるのは虫の声ばかり……。ほかには何んにも聞えるものも無い。(又もや耳を傾ける。)おまえには何か聞えますか。
お妙 (耳をかたむけて。)いいえ、虫の声のほかには……。
おいよ なんにも聞えませんか。
お妙 はい。
(二人はしばらく無言。梟の声きこゆ。)
お妙 あれ、梟が……。
おいよ え。(又もや耳をかたむけて。)ほんに梟が鳴く……。さびしい晩です。(気をかえて。)さあ、おやすみなさい。おまえには早く起きて貰わなければなりません。あしたの朝も、兄さんの帰る前に火を焚きつけて、お湯を沸かすようにして置いて下さい。
お妙 はい、はい。では、お先へ臥《ふ》せります。
おいよ おやすみなさい。
(お妙は会釈して、やはり気味悪るそうにおいよを見返りながら奥に入る。時の鐘。おいよは木戸口へゆきて、しっかりと錠をかける。)
おいよ 今夜は思いのほかに早く更けた。
(おいよは何かの声が聞えるかと耳を澄ましながら、引返して筵の上に坐る。梟の声。)
おいよ (おびえたように見返る。)いや、いや、あれはやっぱり梟の声……。ほかには何んにも聞えない。聞えない。
(おいよは砧の盤にむかいて打ち始める。月また薄暗くなる。おいよはやがて屹と耳をかたむけて、表を見かえる。)
おいよ あ、聞える……。(再び耳を傾けて。)きこえる、聞える……。(槌を置いて立ちかかる。)おお、今夜も聞える……。あれは梟ではない、確にいつもの……狼……狼の声……。(いよいよおびえて。)おお、おお、だんだんに近くなって来る……。(木戸口へ行きて表を窺う。)おお、来た、来た。又わたしを呼び出しに来たのか。(両手で耳をおさえる。)さあ、今が大事の場合……。今夜こそは伴天連さまの教えにしたがって……。神さまのお力に縋って……。
(おいよは慌てて縁にかけ上り、懐中より彼のマリアの像を取出して、行燈の火に照らして見る。)
おいよ (マリアの像を押頂く。)サンタ、マリア……。サンタ、マリア……。(やがて又、表をみかえる。)ええ、まだ聞える。まだ聞える。(今度は無言にて、像を押頂きながら念ず。)まだ聞える……。やっぱり聞える……。わたしの信心が足らないのか。伴天連の教えが詐《いつわ》りか。ええ、聞えないでくれ、聞えないでくれ。ええ、もうどうしたら好いか。(像を置いて、両手で耳をおさえながら俯伏《うつぶ》す。)ええ、これでも聞える……。
(おいよは再びマリアの像を取りながら、物に引かるるように縁を降りる。)
おいよ ええ、今夜もやっぱり……。いや、行ってはならない。出てはならない。これほどにサンタ、マリアを念じても……。神様は救って下さらないのか。わたしの罪が深いのか。(持ったる像を地に投げ捨て、砧の前へゆきて槌を取る。)ええ、執念ぶかい狼め。鬼め、悪魔め、畜生め。啼くな。啼くな呼んでくれるな。
(おいよは眼にみえぬ物を追い払おうとするように槌をふりまわし、髪もみだれて姿もしどけなく、筵の上に狂い倒れる。奥よりお妙出づ。)
お妙 (みまわして驚く。)あれ、姉さん……。(縁をかけ降りる。)もし、どうしました。もし、姉さん……。
(おいよは答えも無しに倒れている。お妙は不安そうに、あたりを見かえる。)
お妙 さっきから聞いていれば、姉さんは独りで物に狂っているような……。私の耳には何んにも聞えないが、姉さんには何が聞えるのか。もし、姉さん。どうしたのです。
(お妙は気味悪るそうに近寄って、おいよをかかえ起そうとすれば、それを振払うように、おいよは屹と起き直りて、二人の顔と顔とが向き合う。その物すごき形相に、お妙はぎょっとして飛び退く。)
お妙 あれえ。
(お妙は逃げんとすれど、身が竦《すく》みて容易に動き得ず。おいよは両手を地につきて、餌を狙う狼のようにお妙をじっと睨む。)
お妙 (声をふるわせる。)もし、姉さん。わたしです、お妙です……。な
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