んだか俄《にわか》に様子が変って……。おまえは一体どうしたのです。もし、姉さん……。
(おいよは答えず、低く唸りながらお妙の方へ這うようにじりじりと進み寄る。)
お妙 それでは宵に聞いた通り、お前には怖ろしい狼が乗り憑ったのか。よもやと思っていたが、やっぱり本当であったのか。それにしても妹のわたしを……。もし、お願いです。助けてください。
(お妙はようよう立ち上りて、表のかたへ逃げ出そうとすれど、木戸には錠をかけているので直ぐには開かず。そのあいだに、おいよは眼を嗔《みは》らせて、今にも飛びかかりそうに詰めよる。お妙は途方にくれ、引返して上のかたにそろそろと逃げ行けば、おいよはそれを付け廻すように、下のかたより上のかたへ向って又じりじりと詰め寄る。)
お妙 (必死になって叫ぶ。)もし、誰か来て下さい。助けてください。姉さんが狼に……。誰か早く来て下さい。助けてください。
(お妙は救いを呼びながら、有合う砧の槌や布を打付けて縁に逃げ上れば、おいよもひらりと飛び上る。お妙はうろたえて又もや庭に飛び降りれば、おいよも続いて飛び降りる。)
お妙 姉さん、姉さん、助けて下さい。堪忍してください。この通りです。拝みます。
(お妙は手をあわせながら、起きつ転《まろ》びつ逃げまわりて、上のかたの竹薮へ逃げ込めば、おいよもあとを追って飛び込む。月また薄暗く、竹薮のざわざわと揺れる音。薮のうちにて、お妙が「あれえ、あれえ」と叫ぶ声。その悲鳴のやみたる頃、下のかたより第一幕の百姓善助出づ。)
善助 ここの家《うち》で助けてくれと云う声がきこえたようだが……。何事が起ったのか。(内にむかって呼ぶ。)もし、誰もいないのかな。もし、もし……。
(善助は木戸をゆすぶっている。上のかたの竹薮よりお妙は髪をふり乱し、どこやらを咬まれし体《てい》にて、よろめきながら逃げ出で、庭先にてばったり倒れる。)
善助 (外より声をかける。)これ、お妙さん。どうしたのだ。
(お妙は無言にて上のかたを指さす。やがて竹薮よりおいよは口のまわりに血を染めて出で来り、月明りに善助を見てじっと睨めば、善助はわっと驚き、一目散に下のかたへ逃げ去る。お妙は這い起きんとして、又倒れたるままに息絶ゆ。おいよは縁にひらりと飛び上りて、倒れたるお妙を見おろすように窺う。月のひかり、風の音。)
これにて黒き幕をおろし、直ぐに再び幕をあける。
二
第二幕の一つ家。外には月の光。
(モウロと正吉はテーブルに蝋燭を立て、向い合いて聖書を読んでいる。呼子の笛きこゆ。)
正吉 (顔をあげる。)あ、笛の声がきこえます。
モウロ (おなじく耳を傾ける。)笛の音……。あれは何ですか。
正吉 あれは呼子の笛です。(立ちあがる。)狩人達が狼のすがたを見付けて、その合図に笛を吹いているのかも知れません。
モウロ 狼……。おお、おいよさん……。(不安らしく立上る。)
正吉 おいよさんは確に自分の家《うち》へ帰ったのですが……。(これも不安らしく。)又抜け出したのでしょうか。
(笛の声また聞ゆ。)
正吉 あれ、あれ、笛の声がつづけて聞えます。鳥渡《ちょっと》行って見て来ましょう。
(正吉は表へ出ようとする時、小銃の音きこゆ。二人は顔をみあわせる。)
正吉 鉄砲の音がきこえました。
モウロ おお、鉄砲……。鉄砲の音……。
(二人はいよいよ不安を感じたるが如く、正吉は窓より表を窺う。下のかたの秋草をかき分けておいよ転び出で、窓の外に倒れる。)
正吉 あ、狼……。(窓より覗く。)いえ、人です、人です。人が倒れています。
(正吉はあわてて表へ出てゆく。モウロも続いて出づ。)
正吉 (月あかりに透し見て叫ぶ。)おいよさんです、おいよさんです。
モウロ おお、おいよさん……。兎も角も内へ入れましょう。
(モウロと正吉はおいよをかき上げて、家の内に運び入れ、炉の前へ後ろ向きに横える。)
正吉 鉄砲で撃たれたのでしょうか。
(モウロはおいよを抱きあげて介抱する。)
モウロ あなた、どうしましたか。
正吉 (呼ぶ。)おいよさん……。おいよさん……。
(おいよは答えず。正吉は蝋燭をさし付けてモウロの顔をみれば、モウロは悲しげに頭を掉《ふ》りて、もういけないと云う。そのうちに正吉は地に落ちたるマリアの像を拾いあげて見せる。)
正吉 マリア様の像には血が付いています。おいよさんが持って来たのでしょうか。
(モウロは無言にて、その像を把ってながめている。下のかたより田原弥三郎は銃を持ちて出づ。)
弥三郎 何でもこっちへ来た筈だが……。はてな。(そこらを見まわしている。)
(正吉、こころ付いて窓より声をかける。)
正吉 もし、お前は何を探しているのです。
弥三郎 狼を撃って、確に手堪えがあったのだが……。急所を外れたので
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