で、確にはおぼえて居りませんが、あの小僧さんには松明《たいまつ》を投げ付けられたようでござりました。(涙をぬぐう。)伴天連様。今のわたくしは人間であるのか、獣になったのか、我身でわが身が判りません。兎もかくも昼間は人なみの人間で、道理も人情も一通りはわきまえて居りながら、夜になると忽ち狼のこころに変って、人の肉を喰い、人の血を啜る……。こんな浅ましい因果な人間は、とても此世に生きてはいられないのでござります。どう考えても、死ぬより外はござりません。
モウロ (悼ましげに。)あなたの苦しみは察しられます。死のうとするのも無理はありません。昼は人間で、夜は狼になる――そういう不思議な人間は欧羅巴《ヨーロッパ》にもあります。それは日本の狐つきと同じように、狼が人間に憑くのだと云い伝えられて居りますが、所詮は悪魔が人間に乗り移って、さまざまの禍《わざわい》をさせるに相違ないのです。あなたにもその悪魔が憑いたのです。(形をあらためて。)しかし決して恐れることはありません、悲しむこともありません。悪魔に憑かれた人間が救われた例《ためし》は沢山あります。あなたも神さまにお祈りなさい。一心に神様にお縋りなさい。われわれの神様はかならず悪魔を遠ざけて、あなたを救って下さります。
おいよ あの、わたくしのような者でも……。(モウロの前にひざまづく。)ほんとうに救われましょうか。
モウロ 救われます。
おいよ (モウロの裾に縋る。)きっと救われましょうか。
モウロ (断乎として。)救われます。我々の神様をお信じなさい。あなたは必ず救われます。
おいよ ありがとうござります。(思わず手をあわせる。)
モウロ そこで、あなたの夫――田原さんと云いましたな。その人も妹さんもあなたの秘密を少しも知らないのですか。
おいよ 知りません。誰も存じないようでござります。いっそ夫に打明けて、なんとか相談を致そうかと存じましたが……。いかに夫婦のあいだでも、こればかりは思い切って打明けることも出来ず、わたくし一人で苦しんでいるのでござります。
モウロ 御もっともです。わたくしも決して他人には洩らしませんから、御安心なさい。(考える。)あなたはここに長くいることが出来ますか。
おいよ (これも考えて。)さあ、今晩は断りなしに出ましたので……。
モウロ (うなずく。)そうです、そうです。あなたの帰りがおくれると、家《うち》の人達が心配しましょう。今夜は早くお帰りなさい。あなたには教えたいことが色々ありますが……。又来てくれますか。
おいよ お救い下さると仰《おっ》しゃるならば、わたくしは必ず伺います。
モウロ では、明日《あした》来てください。あしたの午過ぎに……。
おいよ かしこまりました。
(モウロはマリアの像をささげて来て、テーブルの上に置く。)
モウロ これは尊いマリア様のお姿です。今夜はこれをあなたに貸してあげますから、若し狼の声がきこえたらば、一心にお祈りなさい。判りましたか。サンタ、マリアと呼んで祈るのです。
おいよ (低い声で。)サンタ、マリア……。
モウロ そうです、そうです。(十字架をかざして。)サンタ、マリア。
正吉 サンタ、マリア。
おいよ (ひざまずいて。)サンタ、マリア。
(三人は合掌す。虫の声。外には月のひかり明るくなる。)

          二

 同じく村はずれの草原。一面に芒《すすき》その他のあき草が伸びている。正面には山々見ゆ。薄月のひかり。虫の声。
(上のかたより正吉とおいよ出づ。)
おいよ 道はよく判っていますから、もうここらでお帰りください。
正吉 道は判っておいででも、途中で又どんなことがあるかも知れないから、家《うち》の近所まで送りとどけてあげろと伴天連《バテレン》様のお指図でござります。
おいよ ほんに有難い伴天連様……。ああいうお方のおそばに付いていられるのは、お前のお仕合せでござりますな。
正吉 まったく仕合せでござります。それもみな神様のお救いであると、有難く思って居ります。
おいよ わたくしもそのお救いを受けることが出来ればよいが……。
正吉 疑うことはありません。神さまは屹とあなたをお救い下さります。明日《あした》はお出でになりますか。
おいよ 明日ばかりでなく、これからは毎日でも暇をみまして、有難い教えをうけたまわりに参りますから、何分よろしく願います。
正吉 是非おいで下さい。お待ち申して居ります。(行きかけて空をみる。)おお、月がまた薄暗くなりました。
おいよ (空をみる。)このごろの癖で、夜はときどきに曇ります。
正吉 今夜はまだ狼の声はきこえませんか。
おいよ (耳を傾けて。)いえ、聞えません。まだ宵でござりますから……。
(薄く風の音。月はいよいよ暗くなる。下のかたより芒をかきわけて田原弥三郎は
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