いよ[#「いよ」に傍点]と申します。
(モウロはうなずきながら、おいよを抱き起して元の床几にかけさせ、自分も元の席に戻る。)
モウロ わかりました。あなたの名はおいよさん。そのあなたと、あなたの夫と、その妹と……。三人の家族ですな。
おいよ はい。夫は浪人の身となりましたので、その後は夫婦|兄妹《きょうだい》三人がここに引籠りまして、夫は狩人、わたくしは近所の娘子供に手習や針仕事などを教えまして、何事もなく月日を送って居りますうちに……。まあ、なんという因果でござりましょう。わたくしに不図おそろしい魔がさしまして……。(云いかけて、又泣き入る。)
モウロ まあ、お待ちなさい。正吉さん。水を洩って来てください。
(正吉は棚より金属製のコップを取り、それに桶の水を汲み入れて持ち来れば、モウロはポケットより紙につつみたる粉薬をとり出す。)
モウロ あなた、弱ってはいけません。ここによい薬があります。さあ、これを飲んで、すこし休息して、それからゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]お話しなさい。
(モウロはおいよを勦りて、薬を飲ませる。)
おいよ ありがとうござります。いえ、もう弱りは致しません、泣きは致しません。わたくしも一生懸命でござります。(涙を拭いて。)もし、そのあとをお聴きください。忘れもしない此の七月二日の晩でござりました。わたくしが夜なかにふと[#「ふと」に傍点]眼をさましますと、表でわたくしの名を呼ぶような声がきこえます。不思議に思って窓をあけて見ますと、暗い表に人らしいものの忍んでいる様子もござりません。(その当時のありさまを思い出したように、眼を輝かしてあたりを見廻す。)よく聞くと、それは人の声ではなく、狼……狼の声でござりました。
モウロ 狼……。あなたはその声を聞いたばかりで、その姿を見ませんでしたか。
おいよ 姿はみえません、暗いなかで唯きこえるのは声ばかり……。それを聞いているうちに……。その時わたくしに魔がさしたのか、獣のたましいが乗憑《のりうつ》ったのか、自分でも夢のように雨戸をあけて、ふらふらと表へ出ました。(立ちあがる。)どこかで狼の声がつづけて聞えます。それがわたくしを呼ぶように聞えるので……。
(おいよはふらふらと表へ出て行こうとするを、モウロと正吉は遮りながら押戻して腰をかけさせる。)
モウロ まあ、落付かなければいけません。それからあなたは何《ど》うしました。
おいよ もう其時には……。わたくしの心は狼のようになっていたのでござります。あても無しに往来へ迷って出て、近所の墓場へまいりまして……。きのう埋めたばかりの新仏《しんぼとけ》の……。その新仏の墓をほりかえして……。もうそのあとは申上げられません。
(おいよはテーブルの上に泣き伏す。モウロと正吉は黙祷す。暫時の間。)
おいよ (息をついて。)何事も半分は夢のようで、自分でもはっきり[#「はっきり」に傍点]と覚えてはいないのでござりますが……。兎も角もそれから家《うち》へ帰りまして、誰にも覚られずに済みました。
モウロ それから後にも、その狼の声が聞えるのですか。
おいよ 毎晩きこえます。その後は夜が更けると、必ずわたくしを呼ぶように聞えます。呼び出されてはならない、誘い出されてはならないと、一生懸命に耳を塞いだり、眼を瞑《と》じたり、口のうちで観音さまや阿弥陀仏様を念じたりして、色々に防いでいたのでござりますが、三日目に一度、五日目に一度は、どうしても防ぎ切れなくなりまして、糸に引かれるようにうかうか[#「うかうか」に傍点]と表へ出て、相変らず墓荒しを致して居りますうちに……。(次第に亢奮して。)盂蘭盆《うらぼん》の[#「盂蘭盆《うらぼん》の」は底本では「孟蘭盆《うらぼん》の」]月の明るい晩、三人づれの若い女が笑いながら来るのに出逢いました。それを見ると、わたくしは……。いきなりに飛びかかって……。
(おいよはいよいよ亢奮して又立ちあがり、傍に立っている正吉の腕をつかんで引寄せようとするを、モウロは立寄って引き分ける。)
モウロ その三人は皆あなたに殺されましたか。
おいよ いえ、わたくしが一人《ひとり》に飛びかかると、ほかの二人《ふたり》はおどろいて逃げてしまいました。あとで聞きますと、その三人は盆踊の戻り道でわたくしに殺されたのはおぎんと云う今年《ことし》十六の娘……。しかも毎日わたくしのところへ針仕事の稽古に来る娘でござりました。情ないと云いましょうか、浅ましいと申しましょうか。それが因果の始まりで……。(又泣く。)
モウロ (嘆息して。)その狼の噂はわたくしも聞いていましたが……。では、二三日前の晩に、寺の小僧に飛びかかったと云うのも、矢張りあなたでしたか。
おいよ 唯今も申す通り、何事も自分がするのか、人がさせるのか、半分は夢のよう
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