も知らぬ遠い他国へ追いやって、たんと苦労させるのがいじらしかった。苦労をする男も辛《つら》いには相違ないが、これから先、朝に夕にその苦労を思いやる自分の辛さもしみじみ思いやられた。そんな苦しい思いをした上で、確かに末の楽しみがあるやらないやら、それもお園は俄かに不安になって来た。眼の前はいよいよ暗くなって来た。
「六三《ろくさ》さん。お前、どうしても江戸へ行く気かえ」と、お園は男の肩に手をかけて今更のように念を押した。
男は不思議そうな顔をして立ちどまった。蒼白い顔と顔とが向き合った。お園は暗い影につつまれてしまったように感じた。
夜の春雨はやはりしとしと[#「しとしと」に傍点]と降っていた。
雨は明くる朝まで降りやまないで、西横堀の川端に死屍《しかばね》をさらした男と女との生《なま》なましい血を洗い流した。男は鑿《のみ》で咽喉《のど》を突き破っていた。女は剃刀《かみそり》で同じく咽喉を掻き切っていた。検視の末に、それが大工の六三郎と遊女のお園とであることは直ぐに判ったが、二人がいつ新屋敷をぬけ出したのか誰も知らなかった。なぜこの西横堀を死場所にえらんだのか、それも誰にも判断が
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