《おやこ》は濡れながらに路を急いだ。父子のうしろに黒い影が付きまとっていることを、二人ともに知らなかった。
黒い影は町方《まちかた》の捕手《とりて》であった。父子が大宝寺町まで行き着かないうちに、捕手は二人を取り巻いた。九郎右衛門は素早くくぐりぬけて逃げ去ったが、あっけに取られてうろうろ[#「うろうろ」に傍点]していた六三郎はすぐに両腕を掴まれた。
四つの木戸は閉められた。非常を報《しら》せる太鼓はとうとう[#「とうとう」に傍点]と鳴った。出口、出口を塞がれて九郎右衛門は逃げ場に迷った。ひとつ所を行きつ戻りつして暫くは捕手の眼を逃れていたが、その夜の戌《いぬ》の刻《こく》(午後八時)頃にとうとう縄にかかった。
唐人あきないというけれども、彼は長崎辺の商人のように陸上で公然と取引きをするのではなかった。彼は抜荷《ぬけに》買いというもので、夜陰《やいん》に船を沖へ乗り出して外国船と密貿易をするのであった。密貿易は厳禁で、この時代には海賊と呼ばれていた。彼は故郷の大坂を立ち退《の》いて、中国西国をさまよううちに、大胆な彼は自分に適当な新しい職業を見いだして、かの抜荷買いの群れにはいった。それが運よく成功して、表向きは博多の町に唐物《とうぶつ》あきないの店を開いているが、その実は長崎奉行の眼をくぐって、いわゆる海賊を本業としていたのである。
こうして十年を送るうちに、彼もさすがに故郷が恋しくなった。彼ももう四十を越して、鏡にむかって小鬢《こびん》の白い糸を見いだした時に、故郷に捨てて来た女房や伜がそぞろに懐かしくなった。余り懐かしさに堪えかねて、彼はそっと大坂へのぼって来た。その留守の間に、ふとした事から秘密が破れて、彼の仲間の一人が召捕られた。長崎の奉行所からは早飛脚《はやびきゃく》に絵姿を持たして、彼の召捕り方を大坂の奉行所へ依頼して来た。
そんなことを夢にも知らない彼は、自分から網の中にはいって来た。自分が昔住んでいた長町辺を尋ね歩いて、それとなく女房や子供の身の上を聞き合わせると、女房はとうに死んでいた。伜は大工の丁稚《でっち》になって大宝寺町にいることが知れた。彼も今更のように昔を悔《くや》んだがもう取り返しの付くことではない、せめては伜だけを連れ帰って父子いっしょに暮らそうと、大宝寺町の近所をさまよっているうちに、彼は遂に待ち網にかかってしまった。
「十年振りで我が子の顔を見ましたれば、思い置くこともござりませぬ。しかし又なまじいにめぐりあった為に、なんにも知らぬ我が子に連坐《まきぞえ》の咎めが掛かろうかと思うと、それが悲しゅうござります」と、九郎右衛門は白洲《しらす》で涙を流した。
奉行にも涙があった。六三郎はふだんから正直の聞えのある者、殊に父子とはいいながら十年も音信不通で、父の罪咎《つみとが》に就いてなんの係り合いもないことは判り切っている。また一方には親方の庄蔵から町名主《まちなぬし》にその事情を訴えて、六三郎の赦免をしきりに嘆願したので、結局六三郎はお構いなしということで免《ゆる》された。
「飛んだ災難であったが、まあ仕方がない。悪い親を持ったが因果と諦めろ」と、親方は慰めるように言った。
この噂を聞いて、お園も定めて案じているだろうとは思ったが、この場合どうしても謹慎していなければならない六三郎は、親方の手前、世間の手前、迂闊《うかつ》に外出することもできないので、じっと堪《こら》えておとなしく日を送っていた。
九郎右衛門は胆《きも》の据わった男だけに、今更なんの未練もなしに自分の罪科《ざいか》をいさぎよく白状したので、吟味にちっとも手数が掛からなかった。彼は大坂じゅうを引廻しの上で、千日寺の前に首を梟《さら》された。
なまじいに親にめぐり合ったのが六三郎の不幸であった。大方はこうなることと覚悟はしていたものの、父の罪がいよいよ獄門と決まったのを知った時は、彼は怖ろしいのと悲しいのとで、実に生きている空はなかった。今日が死罪という日には、彼は飯もくわずに泣いていた。親方もただ「諦めろ、あきらめろ」というよりほかに慰めることばもなかった。
兄弟子たちも六三郎には同情していた。近所の人たちも彼を気の毒に思っていた。しかし世間はむごいもので、気の毒とか可哀そうとかいう口の下から、大工の六三郎は引廻しの子だとか、海賊の子だとかいって、暗《あん》に彼を卑しむような蔭口をきく者も多かった。実際、海賊の子ということが彼の名誉ではなかった。気の弱い六三郎は父の悲惨な死を悲しむと同時に、自分の身に圧《お》しかかって来る世間のむごい迫害を恐れた。自分ばかりではない、大恩のある親方の顔にまでも泥を塗ったのを、彼はひどく申し訳のないことに思って嘆いた。
「そんなことをいつまでもくよくよするな、人の噂も七十五日で、
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