そのうちには自然と消えてしまうに決まっている。ちっとの間の辛抱じゃ。ひとが何を言おうとも気にかけるな」
 親方はこう言って、いつも六三郎を励ましていた。六三郎は涙を流してありがたく聴《き》いていた。その弱々しい泣き顔を見ると、親方もいじらしくってならなかった。いくら屈託しても今更仕方がない、ちっと酒でも飲んで見ろなどともいった。
 父の首が梟《さら》されてから十三日目の晩に、六三郎は手拭に顔を包んでそっと福島屋へ訪ねて行った。今の身の上で晴れがましい遊興はできない。彼はお園を格子口まで呼び出して、そのやつれた蒼白い顔を見せた。このあいだから男の身を案じ暮らしていたお園は、薄暗い軒行燈《のきあんどう》の下にしょんぼりと立っている六三郎の寂しい影を見た時に、涙がまず突っ掛けるようにこぼれて来た。
「大坂じゅうに隠れのない噂、わたしは残らず聞きました。それでもお前の身に何の祟《たた》りもなかったのが、せめてもの仕合せというもの。そうして、親方の首尾はどうでござんすえ」
「いつもいう通り、親方は親切な人。いよいよ私《わし》をいとしがってくれる。それにちっとも苦労はない」
 そう言いながらも、しおれ切っている男の顔が、半月前とは別の人のように痩せ衰えているのを見るにつけても、その悼《いた》ましい苦労が思いやられて、お園の涙は止めどなしに流れた。

     二

 親方は親切な人で、自分にもいろいろと力をつけてくれる。親のことはもう諦めるよりほかはない。
 こう思えば差し当って六三郎の身の上に何のわずらいもないのであるが、彼の最も恐れているのは広い世間の口と眼とであった。むごい口で海賊の子と罵られ、冷たい眼で引廻しの子と睨まれる。それでは世間に顔出しができない。出入り場へも仕事に行かれない。
「それを思うと、俺はもう生きている気はない」と、六三郎は意気地がないように泣き出した。
 男の気の弱いのはお園もかねて知っているので、こうして意気地なく泣いているのが、彼女にはいよいよいじらしく憐れに思われた。お園は子供をすかすように男をなだめて、たとい世間で何と言おうとも、誰がうしろ指を差そうとも、お前には頼もしい親方もついている、わたしというものもある。決して心細く思うには及ばない。ことし十九の男が泣いてばかりいるものではない。もっと心を強くもって男らしくしなければならないと、噛んでふくめるように言って聞かせた。六三郎はすなおに、ただあいあい[#「あいあい」に傍点]と聴いていた。
 二人はそれなりで別れた、呼び上げたいのは山々であったが、お園は家の首尾を気づかって、当分はおとなしく辛抱している方がいいと、くれぐれも言い含めて帰した。
 それからまた半月も経った。親方の家の桜は春を忘れずに白く咲き出した。六三郎もこのごろは空地の仕事場へ出て、この桜の下で板割れなどを削っていた。親方も当分は六三郎を外の仕事へは出すまいと思っていた。しかし日が経つにしたがって、悪い噂はかえって拡がるらしく、直接に自分の耳にはいることや、ほかの弟子たちが世間から聞いて来るいろいろの噂や、どれもこれもみんな六三郎には不利益なことばかりであった。ある出入り場では今後六三郎を仕事によこしてくれるなと言った。ある職人は六三郎とは一緒に仕事をしないと言った。海賊の子に対する世間の憎悪と迫害とが案外に力強いのに親方も驚かされた。
「可哀そうに、六三郎に罪はない」
 親方がいかに六三郎を庇《かば》っても、彼の手ひとつで世間という大きい敵を支えることはできなかった。親方もしまいには考えた。こんなことでは六三郎はいつまでも日蔭者で、晴れて世間を渡ることもできまい。いっそ世間から忘れられるように当分は他国へやった方がいいかとも思った。
「お前も科人《とがにん》の子と指さされてはこの大坂にも住みづらかろう。おれが添え手紙をして江戸の親方衆に頼んでやるから、ほとぼりの冷《さ》めるまで二年か三年か、江戸へ行って修業して来い」
 と、親方は言った。
 六三郎は素直に承知した。兄弟子たちもそれがよかろうと勧めた。
 今の六三郎としては、当分この土地を立ち退くというのが最も利口な方法であったに相違ない。六三郎もそう思った。しかしそれを断行するには、彼に取って辛い悲しいことが二つあった。第一はお園に別れることで、その理由はいうまでもない。第二はこの土地を去ることである。大坂に生まれて大坂以外に一度も足を踏み出したことのない六三郎は、自分を呪う大坂の土がやっぱり懐かしかった。見も知らない他国へひとり身で飛び込んで行くのが何だか恐ろしかった。海賊の子と指さされて大坂に住むのも辛いが、他国者と侮られて江戸に住むのも苦しかろうと、それが彼の小さい胆《きも》をおびえさせた。
 六三郎は三月十五日の晩に福島屋へ行
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