った。彼はお園に逢って、江戸へ行かなければならなくなった訳を沈んだ声で物語った。お園も一度は驚いたが、親方の意見も無理はないと思った。なるほど当分は気を抜くためにこの土地を立ち退くのが六三郎の身の為でもあろうと考えた。
 他国の奉公は辛くもあろうが、そこが辛抱である。石に喰い付いても我慢しなければ男一匹とはいわれまい。お前が帰って来る頃には、わたしの年季も丁度明ける。そうしたら、どんな狭い裏家《うらや》住みでも二人が世帯を持って、かねての約束通りに末長く一緒に添い遂げられる。それを楽しみに二人は当分分かれ分かれになって、西と東で暮らすことにしよう。二年三年はおろか、たとい五年が十年でもわたしはきっと待っている。わたしの心に変りはない。お前も江戸の若い女子《おなご》に馴染などを拵《こさ》えて、わたしという者のあることを忘れてくれるな。親方の所へたよりをする伝手《つで》があったら、わたしの方へもたよりを聞かしてくれ。いよいよ発つという時には、もう一度逢いに来てくれと、お園は細々《こまごま》と言い聞かせて、その晩も格子の先で男と別れた。
 六三郎ももう決心した。一旦は懐かしい大坂の土にも離れ、恋しいお園にも別れて、西も東も知らない他国へ行って、当分は苦しい辛抱をするよりほかはないと心細くも覚悟した。
「では、親方さん。いよいよ江戸へ行くことにいたします」
「それがいい。なに、多寡が二年か三年の辛抱じゃ。いい時分には俺の方から呼び戻してやる。せいぜい腕を磨いて、大坂者を驚かすような立派な職人になって帰って来い。人間は腕次第じゃ。お前がいい腕をもっていれば、今までお前を悪う言った者も、向うから頭をさげて頼んで来るようにもなる」
 親方は江戸の或る棟梁に宛てた手紙を書いてくれて、これを持って行けばきっと面倒を見てくれると言った。初旅であるから気をつけろと、道中の心得などもいろいろ言い聞かしてくれた。旅の支度もしてくれた、路用もくれた。兄弟子たちも思い思いに餞別《せんべつ》をくれた。みんなの親切が身にしみて嬉しいに付けても、六三郎はこの親切な人びとに別れて、他国の他人の中へ踏み出すのがいよいよ辛かった。彼は人の見ない所で時どき涙をふいた。
 二十日《はつか》は日がいいというので、いよいよその朝に草鞋《わらじ》を穿くことになった。その前の日に六三郎は母の寺詣りに行きたいと言った。
「よく気がついた。当分お詣りもできまいから、おふくろの墓へ行って、よくその訳をいって拝んで来るがいい」と、親方は幾らかの布施《ふせ》を包んでくれた。
 六三郎はありがたくその布施をいただいて、午《ひる》すぎから親方の家を出た。今日もどんよりと陰った日で、裏の空地の桜は風もないのにもう散りそめていた。
 寺は六三郎が昔住んだ長町《ながまち》裏にあった。親方の家へ引き取られてからも六三郎は参詣を欠かしたことがないので、住職にも奇特《きどく》に思われていた。住職も今度の一条を知っているので、六三郎の不運を気の毒がって親切に慰めてくれた。江戸へ行くというのを聞いて、成る程それもよかろう、たとい幾年留守にしても阿母《おっか》さんの墓を無縁にするようなことは決してしない、安心して行くがよいと、これも江戸の知りびとに添え手紙などを書いてくれた。
 暇《いとま》乞いをして寺を出るころには雨が降って来た。六三郎は雨の中を千日寺へも行った。父の死首《しにくび》はもう梟《さら》されていないでも、せめて墓詣りだけでもして行きたいと思ったのである。死罪になった者の死体は投げ込み同様で、もとより墓標なども見えなかったが、それでも[#「それでも」は底本では「それても」]寺僧の情けで新しい卒塔婆《そとば》が一本立っていた。
 十年振りでめぐり合った父が直ぐにここの土になろうとは、まるで一※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《いっとき》の夢としか思われなかった。しかもその夢はおそろしい夢であった。卵塔場《らんとうば》には春の草が青かった。細かい雨が音もなしに卒塔婆をぬらしていた。父に逢った夕暮れにもこんな雨にぬれたことを思い出して、顔のしずくを払う六三郎の指先には涙のしずくも流れた。
 死んだ父母に暇乞いは済んだ。今度は生きた人に暇乞いをしなければならない。日が暮れて六三郎はさらに新屋敷へ行った。
「よう来て下さんした」
 お園は六三郎を揚屋《あげや》へ連れて行った。今夜は当分の別れである。格子の立ち話では済まされなかった。二人が薄暗い燭台の前に坐った時に、雨の音はまだやまなかった。お園はどう工面《くめん》したか二両の金を餞別にくれた。それから自分が縫ったといって肌着をくれた。
 もう決心はしたものの、六三郎はやっぱりお園に別れるのが辛かった。呪われた土地がやっぱり懐かしかった。お園と行く末の
前へ 次へ
全7ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング