話をしている間も、何に付けても涙ぐまれた。
「このあいだも言った通り、お前も男、必ず弱々しい気をもって下さるな。女でも生まれ故郷を離れて、遠い長崎や奥州の果てへ行く者も沢山《たくさん》ある。この廓《くるわ》にいる人でも大坂生まれは数えるほどで、近くても京《きょう》丹波《たんば》、遠くは四国西国から売られて来て、知らぬ他国で辛い勤め奉公しているのもある。それを思えば男の身で、多寡《たか》が二年か三年の辛抱がならぬということがあるものか」
 お園は同じことを繰り返して力を付けた。
「それはわしも知っている。親方にもいわれ、兄弟子たちにもいわれ、お前にも意見され、どうでも江戸へ行くことに覚悟は決めている。どんな辛い辛抱もして、立派な職人になって戻って来るほどに、どうぞそれまで待っていてくれ」
 口だけは男らしく言っても、それを裏切る涙は六三郎の眼に浮いていた。
 歯がゆいように弱々しい男がお園にはやっぱり可愛かった。可愛いというよりも、いじらしく憐れでならなかった。うるさい世間の口を避けるために、江戸へ修業に行くのも確かにいい。そうして、他人の中で揉《も》まれて来れば、人間も少しは強くなるに相違ない、腕もあがるに相違ない。一時《いっとき》は辛くとも当人の末の為になる。そう思って自分もしきりに勧めているのではあるが、また考えて見ると、人にもよれ六三郎はこうした稼業《かぎょう》に不似合いな、ふだんから身体もかよわい方である。気の弱いのも幾らかその弱いからだに伴っている。それが西も東も知らない他国に出て、右も左も他人の中へ投げ込まれたらどうであろう。
「鳥でさえも旅鴉《たびがらす》はいじめられる」
 お園はそんなことも悲しく思いやられた。自分も初めてこの廓《さと》へ身を沈めた当座は、意地の悪い朋輩にいじめられて、蔭で泣いたこともたびたびあった。いっそ死んでしまいたいように思ったこともあった。からだの弱い、気の弱い六三郎は、きっと自分と同じような悲しい口惜しい経験を繰り返すに相違ない。江戸の職人は気があらいと聞いている。その中に立ちまじって毎日叱られたり小突かれたり、散々《さんざん》ひどい目に会わされた上に、万一病み煩《わずら》いになった暁にも、まわりが他人ばかりでは碌に看病してくれる者もあるまい。
 こう思うと、自分の前にしょんぼりと坐っている男の痩せた顔や、そそけた髪や、それもこれもお園の胸を陰らせる種であった。男の末のためを思えばこそ、涙を呑み込んで無理に出してやろうとはするものの、自分とても別れたくないのは山々である。口でこそ二年三年というものの、その間には自分の身にもどんなことが起らないとも限らない。今夜が顔の見納めで、もう二度と逢われないようになるかも知れない。そんなことを考えると、お園も男に釣り込まれたように心が少し弱って来た。
 そうかといって今更どうなるものではない。こうなったら、どうしても男を励まして、無理にも江戸へやるより他《ほか》はない。弱いながらも男はもうその覚悟をしている。ここで自分がもろい涙を見せて、男の覚悟をにぶらせるような事があってはならない。所詮《しょせん》こういう苦しい破目《はめ》に落ちたのが男も自分も不運である。この不運を切り抜けるには強い覚悟がなければならない。やれるところまで存分にやって見て、それで切《せつ》ない思いが透らなければ、よくよく二人に縁がないものと諦めるよりほかはないと、世間の苦労をよけい積んでいるお園は、懐《ふとこ》ろ子《ご》のような六三郎よりもさすがに強い覚悟をもって、無理に笑い顔をつくっていた。そうして江戸の客から聴いたことのある浅草の観音さまや、上野の桜や、不忍《しのばず》の弁天さまや、そんな江戸名所のうわさなどを面白そうに男に話して聞かせた。
 六三郎はやっぱり浮かない顔をして聴いていた。どんな名所も故郷ほどには面白そうに思えなかった。たとい毎日逢われないでも、お園の生きている土地に同じく生きていたかった。
「あしたはいつごろ発《た》つのでござんす」と、お園は雨の音を気づかいながら訊《き》いた。
「朝の六つ半に八軒屋《はちけんや》から淀の川舟に乗って行く。あしたは旅立ちよしという日と聞いているから、大抵の雨ならば思い切って発つつもりで、親方も兄弟子たちも八軒屋まで送ってやると言うていた」
「ほんに長い旅でござんすから、暦《こよみ》のよい日をえらむのが肝腎《かんじん》。わたしもその刻限《こくげん》には北を向いて、蔭ながら見送ります。この頃の天気癖で、あしたもどうやら晴れそうもないが、さして強いこともござんすまい」
「どうで長い道中じゃ。雨を恐れてもいられまい」と、六三郎は寂しく笑った。
「お前は下戸《げこ》じゃが、今夜はお別れに一杯飲みなさんせ。酔うて面白う遊びましょう」
 二
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