《いろざと》の人となって今が勤め盛りのお園の眼には、初心《うぶ》で素直で年下の六三郎が可愛く見えた。親方夫婦のほかには懐かしい人はないように思い込んでいた六三郎も、この夜からさらに懐かしい人を新たに発見した。正直な男も恋には大胆になって、その後も親方や兄弟子たちの眼を忍んで新屋敷へ折りおりに姿を見せた。
二人がどっちも若い同士であったら、すぐに無我夢中にのぼり詰めて我れから破滅を急ぐのであろうが、幸いに女は男よりも年上であった。色里の面白いことも苦しいことも知りつくしていた。まだ丁稚あがりの男の身分から考えても、五度逢うところは三度逢い、二度を一度にするのが二人の為であるということも知っていた。彼女《かれ》は小春治兵衛《こはるじへえ》や梅川忠兵衛《うめがわちゅうべえ》の悲しい末路をも知っていた。
「お前とわたしの名を浄瑠璃に唄われとうはない。わたしが二十五の年明《ねんあ》けまでは、おたがいに辛抱が大事でござんすぞ」
お園はいつも弟のような六三郎に意見していた。二人の間にもう行く末の約束が固く取り結ばれていたのであった。しかし艶《はで》な浮名を好まない質《たち》であるのと、もうひとつには自分よりも年下の、しかも大工の丁稚あがりを情夫《おとこ》にしているということが勤めする身の見得《みえ》にもならないので、お園は自分がいよいよ自由の身になるまでは、なるべく六三郎との仲をひとには洩らしたくないと思っていた。そんな噂を立てられては男の為にもならないと案じた。若い男があせって通って来るのを、女はかえって堰《せ》き止めるようにしていた。年下の男をもった為に、お園はいろいろの気苦労が多かった。遊びの諸払いも自分がいつも半分ずつ立て替えていた。
こういうじみな、隠れた恋を楽しんでいただけに、二人の仲はなんの破綻《はたん》を現わさずに続いていった。親方も薄うすは悟っていたものの、二人の恋がそれほどまでに根強くかたまっていようとはさすがに思いも付かなかったので、若い者の廓《くるわ》通い、ちっと位は大目に見て置いてやれと、別に小言らしいことも言わなかった。
寛延二年には六三郎が十九になった。お園は二十二の春を迎えた。
親方の家の裏には広い空地《あきち》があった。ここを仕事場としているので、空地の隅には材木を積んで置く木納屋《きなや》があった。納屋の角には六三郎が来ない昔から一本の桜が植えてあって、今はかなりの大木になっていた。六三郎はこの桜の下で鉋《かんな》や鋸《のこ》をつかって、春が来るごとに花の白い梢を仰ぐのであった。今年もその梢がやがて白くなろうとする二月のなかば、陰《くも》って暖かい日の夕暮れであった。六三郎は或る出入り場の仕事から帰って来て、それから近所の風呂屋へ行った。濡《ぬ》れた手拭をさげて風呂屋の門《かど》を出るころには、細かい雨がひたいにはらはら[#「はらはら」に傍点]と落ちて来た。
「もし、もし」
うす暗い路ばたから声をかけられて、六三郎は立ち止まった。呼びかけた人は旅ごしらえをして、深い笠に顔をつつんでいた。
「お前は大工の六三郎さんではござりませぬか」
「はい。わたしは六三郎でござります」
旅びとはあたりをちょっと見返ったが、やがてずっ[#「ずっ」に傍点]と寄って六三郎の手をとった。驚いて振り放そうとしたが、彼は掴《つか》んだその手をゆるめなかった。
「六三《ろくさ》。よく達者でいてくれた。おれは親父《おやじ》の九郎右衛門だ」
足掛け十年振りで父に突然めぐり合った六三郎は、嬉しさと懐かしさに暫くは口も利けなかった。彼は父の手にすがってただ泣いていた。
父はどこで聞いたか、我が子が大宝寺町の庄蔵親方の世話になっていることをもう知っていた。そうして、おれは当時|西国《さいこく》の博多に店を持って、唐人《とうじん》あきないを手広くしている。一年には何千両という儲《もう》けがある。それでお前を迎いに来た。大工の丁稚奉公などしていても多寡が知れている。おれと一緒に西国へ来て大商人《おおあきんど》の跡取りになれと囁《ささや》いて聞かせた。
六三郎は夢のようであった。行くえの知れなかった父が突然に帰って来て、大商人の跡取りにするから一緒に来いという。なんだか嘘らしいような話でもあったが、正直な六三郎は父を疑わなかった。しかし親方に無断でこれから直ぐに行くのは困ると言った。親方に逢ってこれまでの礼を述べて、穏やかに暇を貰ってくれと父に頼んだ。
九郎右衛門はなぜか渋っていたが、結局わが子の言い条を通して、親方のところへ暇を貰う掛合いに行くことになった。いよいよ博多へ行くと決まったら、お園のことも父に打ち明けようと思っていたが、六三郎はまだそれを言い出す暇がなかった。雨はしとしと[#「しとしと」に傍点]降って来たので、父子
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