雪の一日
岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)揺《ゆらめ》いて

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一杯|啜《すす》り

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](大正十五年三月)
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 三月二十日、土曜日。午前八時ごろに寝床を離れると、昨夜から降り出した雪はまだ止まない。二階の窓をあけて見ると、半蔵門の堤は真白に塗られている。電車の停留場には傘の影がいくつも重なり合って白く揺《ゆらめ》いている。雪を載せたトラックが幾台もつづいて通る。雨具をつけて自転車を走らせてゆくのもある。紛々と降りしきる雪のなかに、往来の男や女はそれからそれへと続いてゆく。さすがは市中の雪の晨《あさ》である。
 顔を洗いに降りてゆくと、台所には魚屋が雪だらけの盤台《はんだい》をおろしていて、彼岸に這入《はい》ってからこんなに降ることはめずらしいなどと話していた。その盤台の紅《あか》い鯛の上に白い雪が薄く散りかかっているのも、何となく春の雪らしい風情をみせていた。
 私はこのごろ中耳炎にかかって、毎日医師通いをしているのであるが、何分にも雪が烈《はげ》しいのと、少しく感冐の気味でもあるのとで、今朝は出るのを見あわせて、熱い紅茶を一杯|啜《すす》り終ると、再び二階へあがって書斎に閉じ籠ってしまった。東向きの肱《ひじ》かけ窓は硝子戸《ガラスど》になっているので、居ながらにして往来の電車路の一部が見える。窓にむかって読書、ときどきに往来の雪げしきを眺める。これで向う側に小学校の高い建物がなければ、堀端の眺望は一層好かろうなどと贅沢なことも考える。表に往来の絶え間はないようであるが、やはりこの雪を恐れたとみえて、きょうは朝から来客がない。弱虫は私ばかりでもないらしい。
 午頃に雪もようよう小降りになって、空の色も薄明るくなったかと思うと、午後一時頃からまた強く降り出して来た。まったく彼岸中にこれほどの雪を見るのは近年めずらしいことで、天は暗く、地は白く、風も少し吹き加《くわわ》って、大綿小綿が一面にみだれて渦巻いている。こうなると、春の雪などという淡い気分ではなくなって来た。寒暖計をみると四十五度、正に寒中の温度である。北の窓をあけると、往来を隔てたK氏の邸は、建物も立木も白く沈んで、そのうしろの英国大使館
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