の高い旗竿ばかりが吹雪の間に見えつ隠れつしている。寒い北風が鋭く吹き込んで来るので、私はあわてて窓の雨戸をしめ切って、再び机のまえに戻った。K氏は信州の人である。それから聯想して、信州あたりの雪は中々こんなことではあるまいと思っているうちに、更に信州のT氏のことを思い出した。
 T氏は信州の日本アルプスに近い某村の小学校教員を勤めていて、土地の同好者をあつめて俳句会を組織しているので、私の所へもときどきに俳句の選をたのみに来る。去年の夏休みに上京したときに、この二階へもたずねて来て、二時間あまりも話して帰った。T氏は文学趣味のある人で、新刊の小説戯曲類も相当に読んでいるらしかったが、その話の末にこんなことをいった。
「御承知の通り、わたくし共の地方は冬が寒く、雪が多いので、冬から春へかけて四ヵ月ぐらいは冬籠りで、殆《ほとん》どなんにも出来ません。俳句でも唸っているのが一つの楽《たのし》みです。それですから辺鄙《へんぴ》の土地の割合には読書が流行《はや》ります。勿論、むずかしい書物をよむ者もありますが、娯楽的の書物や雑誌もなかなか多く読まれています。あなたなぞもなるべく戯曲をお書きにならないで、小説風の読み物類をお書きくださいませんか。戯曲も結構ですが、なんといっても戯曲を読むものは少数で、大部分は小説を喜びますから、それらの人々を慰めてやるというお考えで、努めて多数をよろこばせるような物をお書きください。」
 私はきょうの雪に対して、T氏のこの話を思い出したのである。信州にかぎらず、冬の寒い、雪の深い、交通不便の地方に住む人々に取って、かれらが炉辺の友となるものは、戯曲にあらずして文芸作品か大衆小説のたぐいであろう。なんといっても、戯曲には舞台が伴うものであるから、完全なる劇場をも持たない地方の人々の多数が、戯曲をよろこばないのは当然のことで、単に読むだけに止まるならば、戯曲よりも小説を読むであろう。大きい劇場が絶えず興行しているのは、東京以外、京阪その他幾ヵ所の大都会にかぎられている。したがって、観客の数も限られ、またその興行の時間も限られている。それらの事情から考えても、場所をかぎられ、時間を限られ、観客をかぎられている戯曲は、どうしても普遍的の物にはなり得ない。
 それに反して、普遍的の読み物のたぐいは、場所をかぎらず、時を限らず、人を限らず、全国到るところで
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