ために夫婦はその夜ふけに井戸をのぞきに行ったが、姉妹の父母の眼にはなんにも映らなかった。
「この井戸の底に何か怪しい物が棲んでいて、娘たちをまどわすに相違ない。底をさらってあらためてみろ。」と、吉左衛門は命令した。
 師走のなかばではあるが、きょうは朝からうららかに晴れた日で、どこかで笹鳴きのうぐいすの声もきこえた。男女の奉公人がほとんど総がかりで、朝の五つ(午前八時)頃から井戸さらいをはじめたが、水はなかなか汲みほせそうもなかった。
 由井の屋敷内には幾カ所の井戸があるが、この井戸はそのなかでも最も古いもので、由井の先祖が初めてここに移住した頃から、すでに井戸の形をなしていたというのであるから、遠い昔の人が掘ったものに相違ない。しかしこの井戸が最も深く、水もまた最も清冽で、どんな旱魃《かんばつ》にもかつて涸《か》れたことがないので、この屋敷では清水の井戸といっていた。
 その井戸を汲みほそうとするのであるから、容易なことでないのは判り切っていた。汲んでも、汲んでも、あとから湧き出してくる水の多いのに、奉公人どももほとほと持て余してしまったが、それでも大勢の力で、水嵩はふだんよりも余ほど減って来た。
 底にはどんな怪物がひそんでいるか、池の主《ぬし》といったような鯉かなまず[#「なまず」に傍点]か、それともがま[#「がま」に傍点]かいもり[#「いもり」に傍点]かなどと、諸人が想像していたような物の姿は、どうも見いだされそうもないので、吉左衛門は更に命令した。
「熊手《くまで》をおろしてみろ。」
 鉄の熊手は太い綱をつけて井戸の底へ繰下げられた。なにか引っかかる物はないかと、幾たびか引っ掻きまわしているうちに、小さい割には重いものが熊手にかかって引揚げられたので、明るい日光の下《もと》で大勢が眼をあつめて見ると、それは小さい鏡であった。鏡はよほど古いものらしく、しかも高貴の人が持っていた品であるらしいのは、それに精巧な彫刻などが施してあるのを見ても知られた。まだ何か出るかも知れないというので、さらに熊手をおろして探ると、また一面の鏡が引揚げられた。これも前のと同じような品であった。
 そのほかにはもうなんにも掘出し物はないらしいので、その日の井戸さらいはまず中止になって、さらにその二つの鏡の詮議に取りかかったが、単に古い物であろうというばかりで、いつの時代に誰が沈めたものか、ほとんど想像が付かなかった。しかし水に映る顔が二つで、今や二つの鏡を引揚げた以上、その顔の持主《もちぬし》とこの鏡の持主とのあいだに、なにかの関係があることだけは、誰にも容易に想像された。
 吉左衛門は大家《たいけ》に育っただけに、相当の学問の素養もあるので、この古い鏡の発見について少なからぬ興味をもった。且《かつ》はその鏡に自分の娘ふたりを蠱惑《こわく》する不可思議な魔力がひそんでいるらしいことを認めたので、いよいよそのままには捨ておかれないと思って、まずその両面の鏡を白木の箱のなかへ厳重に封じこめた。それから城下へ出て行って有名な学者や鑑定家などを尋ねまわって、その鏡の作られた時代や由緒《ゆいしょ》について考証や鑑定を求めたが、それは日本で作られたものでない、おそらく支那から渡来したものであろうという以上には、なんの発見もなかったので、吉左衛門も失望した。
 その鏡を引揚げて以来、井戸のなかには男の影が映らなくなった。それから考えても、その鏡には何かの秘密がひそんでいるに相違ないと信じられたので、吉左衛門は隣国まで手をまわして、いろいろに詮索《せんさく》した。なにしろ大家で金銭に不自由はないのと、由井の家の名は遠方までもきこえているのとで、こういう場合には何かの都合もよかったのであるが、それでもこの詮索ばかりは思うようにいかないで、あくる年の四、五月ごろまでむなしく月日を過してしまった。姉妹の娘もその後は夢から醒めたようで、なんとも知れない怪しい病気もだんだんに消え去って、もとの健康な人間に立ちかえった。
 娘が元のからだに返って、その後なんの変事もない以上、もうそのままに打捨てておいてもよいのであるが、吉左衛門はまだ気がすまなかった。彼は金と時間とを惜しまずに幾年かかっても構わないから、どうしてもその鏡の由緒を探りきわめようと決心して、熊本はもちろん、佐賀、小倉、長崎、博多からいろいろの学者を招きよせて、自分の屋敷内に一種の研究所のようなものを作って、熱心にその研究をつづけていると、その年の暮れ、その鏡が世にあらわれてから丁度一年目に、いっさいの秘密がはじめて明白になった。
 その発見の手つづきはまずこうであった。由井の家に集まった人々が協議の上で、鏡の由来その他の詮索よりも、まずその井戸がいつの時代に掘られたのか、また由井の先祖がここに移住する前には、何者が住んでいたのかということを詮索する方針を取ったのである。
 それもまた容易に判らなかったのであるが、古い記録や故老の口碑をたずねて、南北朝の初め頃まではここに越智《おち》七郎左衛門という武士が住んでいたことを初めて発見した。七郎左衛門は源平時代からここに屋敷を構えていて、相当に有力の武士であったらしいのであるが、南北朝時代に菊池のために亡ぼされて、その子孫はどこへか立去ったということが判ったので、さらにその子孫のゆくえを詮議することになったが、何分にも遠い昔のことであるから、それも容易には判らない。いろいろに手を尽して詮索した末に、越智の家の子孫は博多へ流れて行って、今では巴屋という漆屋《うるしや》になっていることを突きとめた。口で言うと、単にこれだけの手つづきであるが、これだけのことを確かめるまでに殆んど一年間を費《ついや》したのであった。
 それから博多の巴屋について、越智の家に関する古い記録を詮議すると、巴屋にも別に記録のようなものは何にも残っていなかった。しかし遠い先祖のことについて、こういう一種の伝説があるといって、当代の主人が話してくれた。
 それが何代目であるか判らないが、源平時代に越智の家は最も繁昌していたらしい。その越智の屋敷へ或る年の春の夕ぐれに、二人連れの若い美しい女がたずねて来た。主人の七郎左衛門に逢って、どういう話をしたか知らないが、その女たちはその夜からここに足をとどめて、屋敷内の人になってしまった。主人は一家の者に堅く口止めをして、かの女たちを秘密に養っておいたのである。女たちも人目を避けて、めったに外へ出なかった。
 その人柄や風俗から察すると、かれらは都の人々で、おそらく平家の官女が壇の浦から落ちて来て、ここに隠れ家を求めたのであろうと、屋敷内の者はひそかに鑑定していた。主人の七郎左衛門はその当時二十二三歳で、まだ独身であった。そのふところへ都生れの若い女が迷い込んで来たのであるから、その成行きも想像するに難くない。やがてその二人の女は主人と寝食をともにするようになって、三年あまりをむつまじく暮らしていた。どっちが妻だかわからないが、家来らはその一人を梅殿といい、他のひとりを桜殿と呼んで尊敬していた。
 そうしているうちに、ここに一つの事件が起った。それは近郷の滝沢という武士から七郎左衛門に結婚を申込んで来たのである。滝沢もここらでは有力の武士で、それと縁を組むことは越智の家に取っても都合がよかった。ことに滝沢の娘というのはことし十七の美人であるので、七郎左衛門のこころは動いた。実際はたといどういう関係であろうとも、梅殿と桜殿とは所詮《しょせん》、日かげの身の上であるから、表向きにはなんと言うことも出来なかった。縁談は故障なく運んで、いよいよ今夜は嫁御の輿入《こしい》れというめでたい日の朝である。越智の屋敷の家来らは思いもよらない椿事《ちんじ》におどろかされた。
 主人の七郎左衛門はその寝床で刺し殺されていたのである。彼は刃物で左右の胸を突き透されて仰向けになって死んでいた。ひとつ部屋に寝ているはずの梅殿も桜殿もその姿をみせなかった。屋敷じゅうではおどろき騒いで、そこらを隈なく詮索すると、ふたりの女の亡骸《なきがら》は庭の井戸から発見された。前後の事情からかんがえると、今度の縁談に対する怨みと妬みとで、梅と桜とが主人を殺して、かれら自身も一緒に入水《じゅすい》して果てたものと認めるのほかはなかった。勿論、それが疑いもない事実であるらしかった。
 しかもその二つの亡骸を井戸から引揚げたときに、家来らはまたもや意外の事実におどろかされた、今まで都の官女とのみ一|途《ず》に信じていた梅と桜とは、まがうかたなき男であった。彼らはおそらく平家の名ある人々の公達《きんだち》で、みやこ育ちの優美な人柄であるのを幸いに、官女のすがたを仮りて落ちのびて来たものであろう。山家《やまが》育ちの田舎侍などの眼に、それがまことの女らしく見えたのは当然であるとしても、七郎左衛門までが欺かれるはずはない。彼は二人の正体を知りながら、梅と桜とを我がものにして、秘密の快楽にふけっていたのであろう。その罪はまた、かのふたりの手に因《よ》って報いられた。
 梅と桜とが身を沈めたのは、かの清水の井戸であった。二つの鏡はおそらくこの二人の胸に抱かれていたのを、引揚げる時にあやまって沈めてしまったのか、あるいは家来らが取って投げ込んだものであろう。主人の七郎左衛門をうしなったのち、越智の家は親戚の子によって相続された。そうして、前にもいう通り南北朝時代に至って滅亡した。それから幾十年のあいだは草ぶかい野原になっていた跡へ、由井の家の先祖が来たり住んだのである。後住者が木を伐り、草を刈って、新しい住み家を作るときに、測らずもここに埋もれたる古井戸のあるのを発見して、水の清いのを喜んでそのままに用い来たったものらしい。
 源平時代からこの天保初年までは六百余年を経過している。その間、平家の公達のたましいを宿した二つの鏡は、古井戸の底に眠ったように沈んでいたのであろう。それがどうして長い眠りから醒めて、なんの由縁《ゆかり》もない後住者の子孫を蠱惑《こわく》しようと試みたのか、それは永久の謎である。鏡は由井家の菩提寺へ納められて、吉左衛門が施主となって盛大な供養の式を営んだ。
 その鏡はなんとかいう寺の宝物のようになっていて、明治以後にも虫干《むしぼし》の時には陳列して見せたそうであるが、今はどうなったか判らない。由井の家は西南戦争の際に、薩軍の味方をしたために、兵火に焼かれて跡方もなくなってしまったが、家族は長崎の方へ行って、今でも相当に暮らしているという噂である。その井戸は――それもどうしたか判らない。今ではあの辺もよほど開けたというから、やはり清水の井戸として大勢の人に便利をあたえているかも知れない。
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   窯変《ようへん》


     一

 第七の男は語る。

 明治三十七年八月二十九日の夕方である。僕はその当時、日露戦争の従軍新聞記者として満洲の戦地にあって、この日は午後三時ごろに楊家店《ようかてん》という小さい村に行き着いた。前方は遼陽攻撃戦の最中で、首山堡《しゅざんぽう》の高地はまだ陥らない。鉄砲の音は絶え間なしにひびいている。
 僕たちは毎晩つづいて野宿同様の苦をしのいで来たので、今夜は人家をたずねて休息することにして、二、三人あるいは四、五人ずつ別れ別れになって今夜のやどりを探してあるいた。楊家店は文字通りに柳の多い村である。その柳のあいだをくぐり抜けて、僕たち四人の一組は石の古井戸を前にした、相当に大きい家をみつけた。
 井戸のほとりには十八九ぐらいの若い男がバケツに綱を付けたのを繰りさげて、荷《にな》い桶に水を汲みこんでいる。おまえはこの家の者かと、僕たちはおぼつかない支那語できくと、彼は恐れるように頭《かぶり》をふった。ここの家《うち》の姓はなんというかと重ねて訊くと、彼はそこらに落ちている木の枝を拾って、土の上に徐という字を書いてみせた。そうして、日本の大人《たいじん》らはそこへ何の用事でゆくのかと訊《き》きかえした。
 今夜はここの家に泊めてもらう
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