がら、それを手放さぬというのは判らぬ。」
 と、かれは詰《なじ》るように言った。
「それは手前にも判りませぬ。」と、弥次右衛門は言った。「捨てようとしても捨てられぬ。それが身の禍いとも祟りともいうのでござろうか。手前もあしかけ十年、これには絶えず苦しめられております。」
「絶えず苦しめられる……。」
「それは余人にはお話のならぬこと。またお話し申しても、所詮《しょせん》まこととは思われますまい。」
 それぎりで弥次右衛門は黙《だま》ってしまった。喜兵衛も黙っていた。ただ聞えるのは虫の声ばかりである。河原を照らす月のひかりは霜をおいたように白かった。
「もう夜がふけました。」と、弥次右衛門はやがて空を仰ぎながら言った。
「もう夜がふけた。」
 喜兵衛も鸚鵡《おうむ》がえしに言った。彼は気がついて起ちあがった。

     三

 浪人に別れて帰った喜兵衛は、それから一|刻《とき》ほど過ぎてから再びこの河原に姿をあらわした。彼は覆面して身軽によそおっていた。「仇討《かたきうち》襤褸錦《つづれのにしき》」の芝居でみる大晏寺堤《だいあんじづつみ》の場という形で、彼は抜足をして蒲鉾小屋へ忍び寄っ
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