しから丸年《まるどし》の者は歯並みがいいので笛吹きに適しているとかいう俗説があるが、この喜兵衛も二月生れの丸年であるせいか、笛を吹くことはなかなか上手で、子供のときから他人《ひと》も褒める、親たちも自慢するというわけであったから、その道楽だけは今も捨てなかった。
天保《てんぽう》の初年のある秋の夜である。月のいいのに浮かされて、喜兵衛は自分の屋敷を出た。手には秘蔵の笛を持っている。夜露をふんで城外の河原へ出ると、あかるい月の下に芒《すすき》や芦《あし》の穂が白くみだれている。どこやらで虫の声もきこえる。喜兵衛は笛をふきながら河原を下《しも》の方へ遠く降ってゆくと、自分のゆく先にも笛の音《ね》がきこえた。
自分の笛が水にひびくのではない、どこかで別に吹く人があるに相違ないと思って、しばらく耳をすましていると、その笛の音が夜の河原に遠く冴えてきこえる。吹く人も下手ではないが、その笛がよほどの名笛であるらしいことを喜兵衛はさとって、彼はその笛の持主を知りたくなった。
笛の音に寄るのは秋の鹿ばかりではない。喜兵衛も好きの道にたましいを奪われて、その笛の方へ吸い寄せられてゆくと、笛は河しも
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