し、辺鄙《へんぴ》なところに住んでおりますので、めったに市内のまん中へは出ませんから、世間のこともよく判らないのでございますが、毎日の新聞を見ますと、市内のコレラはますます熾《さかん》になるばかりで、容易にやみそうもありません。
 八月の末の夕方でございました。母とわたくしが広い縁側へ出て、市内のコレラの噂をして、もういい加減におしまいになりそうなものだなどと言っておりますと、縁に腰をかけていたお富がこんなことを言い出しました。
「でも、奥さん、ここらにはコレラになりたいと言っている人があるそうでございますよ。」
「まあ、馬鹿なことを……。」と、母は思わず笑い出しました。「誰がコレラになりたいなんて……。冗談にも程がある。」
「いいえ、それが本当らしいのでございますよ。この右の横町の飯田という家《うち》を御存じでしょう。」
 と、お富はまじめで言いました。「あの家の御新造《ごしんぞ》ですよ。」
 この時代には江戸のなごりで、御新造《ごしんぞ》という詞《ことば》がまだ用いられていました。それは奥さんの次で、おかみさんの上です。つまり奥さん、御新造さん、おかみさんという順序になるので、飯田
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