ら無職で暮らして行こうとするには、やはりそれだけの陣立てをしなければなりません。父は母と相談して、新宿の番衆町に地所付きの家を買いました。
 御承知でもありましょうが、新宿も今では四谷区に編入されて、見ちがえるように繁昌の土地になりましたが、そのころの新宿、殊に番衆町のあたりは全く田舎といってもよいくらいで、人家こそ建ち続いておりますけれども、それはそれは寂しいところでございました。
 わたくしの父の買いました家は昔の武家屋敷で、門の左右は大きい竹藪に囲まれて、その奥に七|間《ま》の家《いえ》があります。地面は五百二十坪とかあるそうで、裏手の方は畑になっておりましたが、それでもまだまだ広いあき地がありました。ここらには狸や狢《むじな》も棲んでいるということで、夜は時どき狐の鳴き声もきこえました。そういうわけで、父は静かでよいと言っておりましたが、母やわたくしにはちっと静か過ぎて寂しゅうございました。お富という女中がひとりおりましたが、これは二十四五の頑丈な女で、父と一緒に畑仕事などもしてくれました。
 番衆町へ来てから足かけ三年目が明治十九年、すなわち大コレラの年でございます。暑さも暑
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