りぞけることは出来なくて、彼はその言うがままに人間の血汐をお冬にねぶらせた。
 その夜の閨《ねや》の内で、彼は妻からどんな註文を出されたのか知らないが、その後は日の暮れる頃から忍び出て、三日に一度ぐらいずつは往来の人を斬って歩いた。その刀の血をお冬は嬉しそうにねぶった。死人のふところから奪った金は、夫婦の生活費となった。ある夜、どうしても人を斬る機会がなくて路ばたの犬を斬って帰ると、お冬はそれを嘗めて顔色を悪くした。
「これは人の血ではござりませぬ。犬の血でござります。」
 庄兵衛は一言もなかった。そればかりでなく、それが男の血であるか女の血であるか、あるいは子供の血であるかということまでも、お冬はいちいちに鑑別して庄兵衛をおどろかした。それがだんだんに劫《こう》じて来て、庄兵衛は袂に小さい壺を忍ばせていて、斬られた人の疵口から流れ出る生血《なまち》をそそぎ込んで来るようになった。
 彼はその惨虐な行為に対して、時どきに良心の呵責《かしゃく》を感じることがないでもなかったが、その苦しみも妻の美しい笑顔に逢えば、あさ日に照らされる露のように消えてしまった。彼は一種の殺人鬼となって、江戸の
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