から、あるいは奥の方へ逃げ込んでしまったのかも知れません。
 今日の我れわれから考えますと、どうもそれは主人と野水の幻覚らしく思われるのですが、一概にそうとも断定のできないのは、ここにまた一つの事件があるのです。前にも申した通り、文阿は十蟹の図をかきかけて出て行ったので、その座敷はそのままになっていたのですが、あとであらためてみると、絵具皿は片端から引っくり返されて、九匹の蟹をかいてある大幅の上には墨や朱や雌黄《しおう》やいろいろの絵具を散らして、蟹が横這いをしたらしい足跡がいくつも残っていました。してみると、かの二匹の蟹が文阿のあき巣へ忍び込んで、その十蟹の絵絹の上を踏み荒らしたように思われます。
 それから一週間ほど過ぎて、文阿と半兵衛の死骸が浮きあがりました。ふたりともに顔や身体の内を何かに啖《く》い取られて、手足や肋《あばら》の骨があらわれて、実にふた目とは見られない酷《むご》たらしい姿になっていたそうです。漁師たちの話では、おそらく蟹に啖われたのであろうということでした。
 これでともかくも二人の死骸は見付かりましたが、かの小僧だけは遂にゆくえが判りません。誰に訊いても、ここ
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