のそばへ立ち寄って、そっと水の上を覗いてみたが、男の顔はもう浮かんでいなかった。おそよは言い知れない強い失望を感じて、すごすごとそこを立去ったが、あくる日ふたたびその井戸端を通ると、かれは今日もその上にふたつの蝶のもつれて飛んでいるのを見た。蝶はどこへか姿を隠してしまったが、おそよはその蝶のゆくえを追うようにきょうも井戸のなかを覗いてみると、二つの顔はまたあらわれた。おそよはいつまでも飽かずにその顔を見つめていた。
それが始まりで、おそよは一日のうちに幾たびかその古井戸をのぞきに行った。そうしているうちに、明るい真昼には男の顔が見えなくなって、彼らの美しい顔は夜でなければ水の上に浮かばないようになった。夜ならば月夜はもちろん、闇の夜でも男の顔ははっきりと見えて、宵のうちよりも真夜中の方が一層あざやかに浮き出していた。
おそよがこのごろ夜ふけに寝床を抜け出してゆく子細はそれで判ったが、妹のおつぎにはまだ十分に信じられなかったので、かれは姉にたのんで一緒に連れて行ってもらうことになった。古井戸の水の上には果して二つの白い顔が映っていて、いずれも絵にかいたお公家《くげ》さまのような、ここ
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