病人の枕もとに坐っていた。雨の宵はだんだんにさびしく更けて、雨の音にまじって蛙の声もきこえた。
「重助も帰ってくれ。」と、蛇吉はうなるように言った。
ふたりは顔を見合せていると、病人はまたうなった。
「お年も行ってくれ。」
「どこへ行くんです。」と、お年は訊いた。
「どこでもいい。重助と一緒に行け。いつまでもおれを苦しませるな。」
「じゃあ、行きますよ。」
ふたりはうなずき合ってそこを起《た》った。一本の傘を相合《あいあい》にさして、暗い雨の中を四、五間ばかり歩き出したが、また抜足をして引っ返して来て、門口《かどぐち》からそっと窺うと、内はひっそりしてうなり声もきこえなかった。ふたりは再び顔を見合せながら、さらに忍んで内をのぞくと、病人の寝床は藻ぬけの殻《から》で、蛇吉のすがたは見えなかった。
それがまた村じゅうの騒ぎになって、大勢は手分けをしてそこらを探し廻ったが、蛇吉のすがたはどこにも見いだされなかった。彼は住み馴れた家を捨て、最愛の妻を捨て、永久にこの村から消え失せてしまったのであった。
彼が妻にむかって、この商売を長くはやっていられないと言ったことや、隣り村へゆくことを
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