十前後で、顔色の蒼黒い、口のすこしゆがんだ、痩形の中背の男で、夏でも冬でも浅黄の頭巾《ずきん》をかぶって、草鞋《わらじ》ばきの旅すがたをしているのであるが、朝から晩までこの渡し場に立ち暮らしているばかりで、かつて渡ろうとはしない。
 相手が盲人であるから、船頭は渡し賃を取らず渡してやろうと言っても、彼は寂しく笑いながら黙って頭《かぶり》をふるのである。それも一日や二日のことではなく、一年、二年、三年、雨風をいとわず、暑寒を嫌わず、彼はいかなる日でもかならずこの渡し場にその痩せた姿をあらわすのであった。
 こうなると、船頭どもも見のがすわけにはいかない。一体なんのために毎日ここへ出てくるのかと、しばしば聞きただしたが、座頭はやはり寂しく笑っているばかりで、さらに要領を得るような返事をあたえなかった。しかし彼の目的は自然に覚られた。
 奥州や日光の方面から来る旅びとはここから渡し船に乗ってゆく。江戸の方面から来る旅びとは栗橋から渡し船に乗り込んでここに着く。その乗り降りの旅人を座頭は一々に詮議しているのである。
「もし、このなかに野村彦右衛門というお人はおいでなされぬか。」
 野村彦右衛門――侍らしい苗字であるが、そういう人はかつて通り合せないとみえて、どの人もみな答えずに行き過ぎてしまうのである。それでも座頭は毎日この渡し場にあらわれて、野村彦右衛門をたずねている。それが前にもいう通り、幾年という長い月日のあいだ一日もかかさないのであるから、誰でもその根気のよいのに驚かされずにはいられなかった。
「座頭さんは何でその人をたずねるのだ。」
 こうした質問も船頭どもからしばしばくり返されたが、彼はただいつもの通り、笑っているばかりで、決してその口を開こうとはしなかった。彼は元来無口の男らしく、毎日この渡し場に立ち暮らしていながら、顔は見えずとも声だけはもう聞き慣れているはずの船頭どもに対しても、かつて馴れなれしい詞《ことば》を出したことはなかった。こちらから何か話しかけても、彼は黙って笑うかうなずくかで、なるべく他人《ひと》との応答を避けているようにもみえるので、船頭どもも後には馴れてしまって、彼に向って声をかける者もない。彼も結局それを仕合せとしているらしく、毎日ただひとりで寂しくたたずんでいるのであった。
 いったい彼はどこに住んで、どういう生活をしているのかそれも判らない。どこから出て来て、どこへ帰るのか、わざわざそのあとを付けて行った者もないので、誰にもよく判らなかった。ここの渡しは明け六つに始まって、ゆう七つに終る。彼はそのあいだここに立ち暮らして、渡しの止まるのを合図にどこへか消えるように立去ってしまうのである。朝から晩までこうしていても、別に弁当の用意をして来るらしくもみえない。渡し小屋に寝起きをしている平助という爺《じい》さんが余りに気の毒に思って、あるとき大きい握り飯を二つこしらえてやると、その時ばかりは彼も大層よろこんでその一つを旨そうに食った。そうして、その礼だと言って一文銭を平助に出した。もとより礼を貰う料簡もないので、平助はいらないと断ったが、彼は無理に押付けて行った。
 それが例となって、平助の小屋では毎日大きい握り飯を一つこしらえてやると、彼はきっと一文の銭を置いて行く。いくら物価の廉《やす》い時代でも、大きい握り飯ひとつの値が一文では引合わないわけであるが、平助の方では盲人に対する一種の施しと心得て、毎日こころよくその握り飯をこしらえてやるばかりでなく、湯も飲ませてやる、炉の火にもあたらせてやる。こうした親切が彼の胸にもしみたと見えて、ほかの者とはほとんど口をきかない彼も、平助じいさんだけには幾分か打解けて暑さ寒さの挨拶をすることもあった。
 往来のはげしい街道であるから、渡し船は幾艘も出る。しかし他の船頭どもは夕方から皆めいめいの家へ引揚げてしまって、この小屋に寝泊りをしているのは平助じいさんだけであるので、ある時彼は座頭に言った。
「お前さんはどこから来るのか知らないが、眼の不自由な身で毎日往ったり来たりするのは難儀だろう。いっそ、この小屋に泊ることにしたらどうだ。わたしのほかには誰もいないのだから遠慮することはない。」
 座頭はしばらく考えた後に、それではここに泊らせてくれと言った。平助はひとり者であるから、たとい盲目でも話し相手の出来たのを喜んで、その晩から自分の小屋に泊らせて、出来るだけの面倒をみてやることにした。こうして、利根の川端《かわばた》の渡し小屋に、老いたる船頭と身許不明の盲人とが、雨のふる夜も風の吹く夜も一緒に寝起きするようになって、ふたりの間はいよいよ打解けたわけであるが、とかくに無口の座頭はあまり多くは語らなかった。勿論、自分の来歴や目的については、堅く口を閉じていた。平助の
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